「福島から語る」Vol.9 朝尾光二さん (2018年4月21日)

地震・津波・原発 被災がもたらしたもの
-いわきサポートステーション「もみの木」の活動から見えたこと-

2018年4月21日
朝尾光二氏(いわきサポートステーション「もみの木」元ベース長)

ほとんどの方とは初めてお会いすると思いますが、私は、さいたま教区のサポートセンターが、いわきに設けましたサポートステーション『もみの木』の、三代目のベース長になるのですが、4年間務めて来ました、朝尾光二と申します。
チラシにも書いて頂きましたが、埼玉県熊谷市という暑くて有名なところですね。そこの熊谷小教区におります。
いわきの方に勤めるといいますか、毎週月曜日に行って、木曜日の夕方に帰ってくるという単身赴任のような形で4年間やって参りました。今日はお招き頂きまして、誠にありがとうございます。
つまらない話かもしれないのですが、是非、最後までお聞き頂けたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

では、着席させて頂きます。先ほど漆原さんからもお話がありましたが、以前、この「福島を語る」という本を頂いて、今日ここで話をするようにと言われたので、改めてこれを読ませて頂きました。
今までたくさんのことをやっていらして、今さら私がここで皆さんにお話しても、いわゆる新しいネタが無いなぁという感じがしております。ただ、漆原さんの励ましで、いわきの原発被災の方々から直接聞いたお話しがあれば、是非ご紹介くださいということなので、そのようなことを少しでも話せればと思っております。
風邪を引いておりまして、インフルエンザではありませんから大丈夫です。治って来てはいるのですが、元からの悪声に加えて、余計に声の通りが悪いので、お聞き苦しいかと思いますが、ご辛抱をよろしくお願いします。

まず、最初に皆さん、もう既にご承知と思いますが、東日本大震災がありましたよね。これは福島民友、こちらは福島民報ですが、この日の号外は490人がまだ不明という程度の情報しかない時期があって、非常に大きな震災だったことを皆さん、よくご記憶と思います。
改めて振り返ってみたいと思いますけれども、大学の校舎もこのような状況になり、相馬市の松浦漁港もこのように船が横たわるという状況がどんどん続きました。これはいわき市の小名浜周辺の絵ですが、散乱した瓦礫の山、また常磐線ですけれども、これは津波で押しつぶされた常磐線車両が、ひしゃげておりました。いかに大きな震災だったかということですね。
これは常磐線の富岡駅です。これは象徴的に使われる駅ですけれども、2013年の年度末まで人が入れなかった場所でした。私が2014年に行った時に撮った写真です。駅前がこういう状況で、写真の右奥の方に車がゴロゴロしておりますね。こういうような状況があって、2011年に起きてから14年まで4年間ずっと放置されていた場所でした。もう一つは原発災害です。これは東京電力のページから取ったものですが、第一原発に押し寄せている津波が原子力災害へとなっていきます。これは爆発した4号機の外観。この至近距離で放水車両からポンプを繋いで必死に放水している作業員の方。いかばかりの放射線量だったか分かりませんが。こういう大事件というか、災害が起きました。改めて記憶を思い起こすと、このような状況です。
既に本にもありますので、皆さんの頭の中に入っていらっしゃるかと思いますが、福島県自体は東北の中で一番南にありまして、東京から概ね200キロメートル。人口は2015年で190万人。面積は全国でも北海道、岩手に次いで3番目の広さを持っています。この位置にあって、この小さい方の円が200キロ。この大きい方の円が400キロです。東京の電力は福島第一原発と柏崎刈谷原発の両方からエネルギーを貰って賄われています。福島第一、第二もそうですけれど、私たち東京近郊のものは、ここの電力で生活しているわけです。何度も聞いたお話かも知れませんが、福島県は代々歴史的にエネルギーの供給基地としての性格があります。1914年の猪苗代湖の水力発電とか、只見川の発電所です。右下ですが、ここはいわゆる尾瀬とか尾瀬沼から来る水力発電があるわけです。明治の頃は常磐炭鉱、ご存知でしょうか、1970年代(編註)くらいまでありました。石川町のウランの鉱石なども掘られていて(編註:東京新聞2011/7/17)、明治以来、中央へのエネルギー供給基地としての福島があったのです。海岸沿いにある発電所は東北電力と東京電力、赤いのは東京電力で、青いのが東北電力です。