「福島から語る」Vol.8 大内信一さん(2017年9月23日)

「土の強さと作物のかしこさに助けられて」 ―3.11以降の福島の農業―

2017年9月23日
大内信一氏(有機農業家)

うちは畑や田んぼにいるので、余り時計をしないんですが、今日はしてきました。大体は、腹時計なんです。
福島のためにこういう機会を設けていただき、しかももう、何回も続けているということで、本当に感謝しております。
6年半過ぎましたが、原発の当時のことを話してみますと、隣の浪江町から、原発の立地している町ですが、そこから7,000人ぐらいの人が二本松に避難してきました。仮設住宅ができる前は、ほとんど公民館とか学校とかに入りました。部落とか各種団体がみんなで焚き出しをしたり、ボランティアをしました。ご飯とパンと牛乳ぐらいは出るんですが、温かいものが、おかずやお汁がないということで焚き出しをしたんです。1つの公民館で焚き出しがないということで、畑にいっぱいあったほうれん草を持って行って、みんなに喜ばれたんです。その時には市長も来て、「おお、これはうまいな、おらの料理よりうまい」なんて言っておられました。二本松は、安達太良山麓が牛乳の生産が盛んなので、酪農家がいっぱいいるわけですが、その頃はもう燃料がなく、絞った牛乳を運べない。だから、明日からみんなに飲んでもらうからと、市長が来て、その約束をしたその日、家に帰ったら、ほうれん草と牛乳が出荷停止。放射能が100ベクレル以上出たので出荷停止になったんです。
冬のほうれん草は葉っぱをいっぱい広げて上から降ってきた放射能を受けとめたという、あのほうれん草です。牛乳は何でかと思ったら、一軒の酪農家が山から出る沢水を飲ませていたんですね。ということは、普通なら、きれいな沢水であったわけですが、放射能が降ったために、牛が放射能のセシウムが入った水を飲んだ。水を飲めば、すぐ牛乳に出ます。それで牛乳も出荷停止になったということです。そういうきれいなところほど汚染されました。そんな状況で、まず、牛乳とほうれん草が出荷停止になりました。
我々のほうれん草も主要な作物であったため、本当にこれからここで農業ができるのか、そんな思いで畑に行ったら、今、お話したように、私はほうれん草が叫んでいるように、本当にそう思ったんです。ほうれん草をみんなに「おいしい、おいしい」って食べてもらえば、ほうれん草も生きがいというか、育ったかいがあるわけです。私は、そのほうれん草を見て、思いました。農家の人はわかるんですが、冬の寒さに遭ったほうれん草は畑全面を覆うように、葉っぱを精いっぱい広げています。「あっ、葉っぱを精いっぱい広げて土を守ったんだよ。」そう言っているように思えたんです。これはもう、ほうれん草のいじらしさですね。我が身を犠牲にして土を守った、我々を守ったと、そう感じました。軽トラックで10台分ぐらいのほうれん草を取って、人の来ないところに捨てました。最初の除染というか、自分でやった除染と思っています。