「福島から語る」Vol.10 佐藤彰さん (2016年11月19日)

感謝の心
東京のキャンプ場に着いたら、迎えてくれた人々は優しく、例えば転校していく子どもたちのランドセルを全部調達してくださったり、転校先ではいじめられないようにと校長先生が「福島から来た子どもたちの応援団長は、校長先生です。いじめは許しません」と最初に語ってくださいました。本当にありがたいことです。ところで東京で新生活を始めた子どもたち。ランドセルを背負って、元気でただいまってキャンプ場に帰ると、1時間も2時間も、ランドセルを背負ったままで遊んでいました。子どもは、「ただいま」と同時にランドセルをほおり投げるようにして遊ぶんじゃなかったの?私は何だか子どもたちに聞きたくなりました。「ねぇ、どこかの誰かが6年間、すっかり使い古して傷もついたランドセル。ただでもらって、そんなに嬉しい?だいじなの?」新品じゃなくても、高価ものでなくても後生大事にしていました。私は何だか幸せの物差しが、子どもから大人にまで大震災の嵐の中で振るわれ、ガラガラと音を立てて、ひっくり返ったような気がしました。
かつて旧約聖書の当時バベルの塔の事件がありました。もっと快適になれ、と天まで届くように積み立てたバベルの塔は突如として崩れたのです。まるでその現代版の警告のように、私たちはみんなして足をすくわれ、すっからかんになってみて、あらためて人間の原点、しあわせとは何なのかを突き付けられたのです。
無い物は数えないで、与えられたを見つめて、今日一日を一生のように思って、大地に足をつけ、感謝、感激して生きること、など。なんだか、「苦しんだことで、その根幹を学んだのなら、よかったじゃない」と神様に語られたような気がしたのです。
私は震災数週間後に初めて故郷に帰った時、不思議な感覚に陥りました。まるでふるさとがエデンの園か、失楽園のように映ったのです。車の1台も走っておらず、工場も稼働していない人の消えた自然豊かなふるさと。そこには音がなく、桜が静かに咲きほこり、牛が徘徊していました。私は人間が追放された、旧約聖書の失楽園の光景を思いめぐらしました。神中心を止めたアダムとエバ、長男のカインは弟アベルを石で打ち殺しました。これほど醜い人間はこんなに美しい楽園に住む資格がないとばかりにエデンの園から追放され、東側のノデに住み着いた、という記録です。今、福島は世界中で有名です。先月オーストリアのホテルで、福島とサインしたら、「福島から来たんですか?」と、驚きの反応でした。
あれほど痛んだ福島が、無言のうちに世界中に涙のメッセージを発信しているのだろうか。現代人よ、このままでいいのですか?神抜きに、どこまで快適さを追求して走りますか?このペースで行ったら滅びるとわかっているのではないですか。急ブレーキ、方向転換はどうしました?等々の、見えるものを幸福の物差しと勘違いして走り続ける現代社会への警告のようにも。

地上の旅路
旅の途中で、私たちは聖書の国を旅しているのではないかと錯覚しました。家を失い、みんなで旅をしながら、そういえば新約聖書に登場する初代教会も旅をしていたことを思い出したのです。迫害で、ステバノが死んで悲しかったことが、津波で亡くなった教会の50歳の主婦の旅をしながら逃げながらの悲しいお葬式と重なったのです。喪服もなくガウンもなく、100円ショップから黒いネクタイを買っての参列です。
旅の途上の出会いと別れはいちいち濃く、多すぎました。その都度胸が震え、これが最後のお別れかもとの緊迫感がその都度漂いました。もう二度と会えないかもと思って、涙もぬぐいました。半年ぶりの再会の場面では、号泣したり、抱擁したりで、これは何の物語だと思ったのです。学校がなくなったので、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちが子どもたちに勉強を教えたりもしました。時には泣きながら讃美歌を歌ったり、お葬式と洗礼式が交代で行われたので、私たちは果たしてうれしいのか悲しいのかもわからなかったのです。旅の途中、9人が洗礼を受けました。初代の教会の迫害で追われた旅は、どれほど悲しくて、ありがたいと思ったのだろうと、考えました。
そういえば、旧約聖書にも、バビロン捕囚が記されましたが、国破れて山河ありで、ふるさとを奪われて連れて行かれた先での生活は、どれほど困難をきわめただろう。私たちも、大事な物をなくしてみてはじめてふるさとがどれほど愛おしいかを知りました。帰りたくても帰れない聖書の国を思い、詩編が書かれ旧約聖書が記されたことを思い、聖書は哲学でなく人生そのものなのだと知りました。
モーセのエジプト脱出も思いました。モーセは40年も旅をしましたが、私たちは4カ月で死にそうでした。けれど、人生はもとより旅だったのだと気が付きました。いつの間にか、地上に楽園を求めて錯覚してはいなかったかを、問われました。人生が旅ならば、毎月、毎日はプロセスではないか。もしかしたら神は、結果ではなく、旅の途中のプロセスが欲しかったのではないかとも考えはじめました。一人ではダメだったから私たちは敗残兵が集まるように肩を寄せ合い力を合わせてみた。二度倒れたけれども、三度立ち上がろうとしてみた。神様はこのプロセスを見ていたのではないか、と。故郷に帰れるか帰れないかは知らないけれども、地上の旅路のプロセスを大切にしようと思ったのです。