「福島から語る」Vol.10 佐藤彰さん (2016年11月19日)

人生の使命
最後に私がお話したいことは、旧約聖書のエステル記の物語です。この主人公は女性で、親は死にましたが美人でした。後に、ペルシャ帝国のお妃になる数奇な人生を送った人です。たまたま、美人だったので、歴史のいたずらか、お妃の座に着いたのでした。やがて歴史の歯車が動き、ユダヤ人であった彼女の民族が絶滅の危機に陥りました。そこで、彼女を育てた養父モルデカイがやってきて、あなたがこんな地位に着いたのはこの時のためだと迫ったのです。彼女は恐れました。が、最後は腹をくくり「わかりました、死ななければいけないのでしたら、死にます」と言って立ち上がったのです。そして、すべては解決しました。神の救いの奇跡が起こったのです。
私は震災時のキーワードは、このエステル記に出てくる「もしかしたら、この時のためではないか」だと思っています。覚悟をもって使命に立ち上がる、その先はスピードと決断です。
ここで、私たち60人を迎え入れてくれた東京奥多摩にあるドイツ人の宣教師についてお話しします。震災後すぐに、母国ドイツは原発をすべて停止、そして本国への帰還命令が出ました。しかしそのドイツ人宣教師は「この日本が一番大変な時に日本留まらなくて、何が宣教師か」とキャンプ場を離れず、震災直後から「奥多摩に来なさい」と私たちにメッセージを送り続けました。全ての春キャンプをキャンセルしてです。失礼ながら、私たちは一度も返事をしませんでした。福島に帰ることしか考えてなかったからです。けれどもそんな甘いことを言っている場合ではなくなってきました。そして私たちは苦渋の決断をして、キャンプ場に転がり込んだのです。開けてびっくりとはこのことです。私たちの名簿が用意されていました。部屋割りまでしてありました。置いてなかったテレビまで置き、来ると信じて私たちを待っていたのです。後に先生は、この時のために日本に導かれたと思われたようです。
次に、私たちの教会の名前について話しましょう。その名も、福島第一聖書バプテスト教会。そういえば、後に教会の5キロに建設された原子力発電所も、その名も、福島第一原子力発電所でした。この名前を定めた宣教師は、奥様を日本で亡くされましたが、日本に留まり宣教を継続。そんな70年前に、このような未来像を語っておられたそうです。「この教会はいずれ、南のいわき市で伝道するようになる」と。
私たちは今、大震災で故郷を無理やり追われ、新築の教会堂を残して、ブーメランのように東京を経由して、かつて宣教師が指さして夢見たいわき市に降り立ちました。これは、いつから定められていた、どなたの物語だったのでしょう。
続けて家内の夢の話をしましょう。震災後彼女は、あまりの出来事に絶句し、食事をしても味を感じなくなりました。また外の景色がモノクロに見えたり、と。そこで、思い出したのが、私と結婚した当初、毎日のように見て日記に付けていた夢の話です。教会のみんながバスに乗り込み、どこまでも旅をする夢です。今頃になって、あの時に見た夢の中を歩いているみたいだ、と。果たしてこれは、神様のデジャブだったのでしょうか。神様が家内の潜在意識の中に、夢を通して「あなたの結婚生活の彼方の遠い日に、これほどに味気ない日々が待っていても、壊れてはならない」との。
最後に、私の話をして終わります。私は悔しくて、夢ならば覚めてほしい、これはいったい何の悪夢だと思っていました。矢も楯もたまらずに、千葉から支援物資を積んで一路福島に向かいました。とにかく、まずは具合の悪い人を避難させようと思ったのです。しかし、それはそんなに簡単なことではありませんでした。行かないほうがいいという人もいました。原発の爆発で危険だと。後で娘からは「本当は、行かないでほしいと思ったけれども、お父さんは牧師だから、言えなかった」と言われました。
深く考える力もなく、とにかく食べる物を買い込もうと2時間だけ開いた食料品店に行くと、あの人買いだめしていると悪口を言われました。次に義援金をおろして、冬物靴下をデパートで買い込みました。そして道路が果たして繋がっているかどうかもわからない状態の中、午前0時にエンジンをふかし、トラック1台と共に、一路皆が待つ福島へと向かいました。徹夜で運転をしました。暗中模索でした。一寸先は闇でした。途中、道路は地割れ陥没していました。
朝が白み始めて、福島の県境をまたいだその時です。次女がメールをよこしました。「お父さん、私が卒業した学校はつぶれ、故郷はなくなり、悲しくて毎日泣いています。私も行きたいけど行けないので、私の分もみんなを励ましてきて。そしてラジオのスイッチを入れて。原発が爆発して、危険だと言っている。気を付けて道路を選んで運転して。けれど、お父さんが原発に一番近い教会の牧師だったのは、この時のためじゃないかと私は思うよ」運転しながらそのメールを見た瞬間に、涙がこぼれ止まらなくなりました。徹夜して、震えて助手席にいる家内に見せたら、家内も泣きました。
大げさに言えば、片道切符かもしれない。今行くということは、二度と戻れないかもしれない、との緊迫感が、頭をよぎっていたのです。けれどその時、私は決めました。そうだ、私はたまたま震災その日の3月11日を誕生日に生まれてきたのではない。この時のための命なのだと。自分の人生は自分で決める。もしも私が30代だったら、耐えられなかったと思う。70歳だったら、とても体力が持たなかった。震災当時、私は1週間で9キロ瘦せたことはすでに話しました。1年間は、毎日ほぼ3時間以上睡眠時間をとることは難しかったのでした。更には、2時間以上先を考えることも。心臓は絶えずバクバクしていました。54歳のこの時に、出会うべくして私はこの大震災に遭遇したのだ、と。この震災に時代を生き抜くために、私は生まれてきたのだと。大震災でなくても、みなさんも、もしかしたらこの時のための人生だろうかと思うことはありませんか。