「福島から語る」Vol.10 佐藤彰さん (2016年11月19日)

ともにおられた救い主イエス
けれども、もう一度気を取り直して聖書のお言葉に目をとめると、卑しめられた言葉を聞く経験も、これまで経験したことのない苦しみを体験したことも、神の教えを学んだという点でよかったのだという、詩編119篇71節のおことばを思い起こします。確かに、あのような苦しみの道のりを通らなければ出会わなかった多くの人がいました。苦しみの道を通って、初めて見る世界がありました。
60~70人で山形県へ猛吹雪の峠越えをした後、余った支援物資を近くの体育館に運ぼうと思ったときのことです。私は、突然息ができなくなくなりました。そうだ、私自身被災して傷ついているのだと気がつきました、私も我が家を失くしました。職場を失い無収入でした。どうして溺れている私が、隣の溺れている人を助けることができようか。人は人を救えないではないか。罪人は罪人を救えないと、この時改めて感慨深く、救い主が、どうしても罪人の住む世界に来られる必要があったのだと、知りました。
それからは、悲しみの人で病を知っていたとイザヤ書に預言されていた救い主が、避難生活のただ中に共におられる、と意識し始めたのです。東京のキャンプ場では、あるご婦人が他のご婦人にこう話していました。「私たち何も家から持ち出してないよね」「あの日原発が危険な状況になり、サイレンが鳴って何も持つな、身一つで逃げろ、とアナウンスされたから、あなたも私も1週間は着替えがなかったよね、だけど、4カ月も経って私たち生きているじゃない?生きるのに必要なのは、震災前はたくさんと思っていたのに、今は少しでいいと勉強したよね」ただ、それだけの会話でしたが、小耳に挟んだ私は、なんだかイエス様が福音書に記された“山上の説教”のように、「空の鳥を見、野のユリを観察し、命は神が下さったものだから、神が装い養うのは当たり前ではないか。だから心配しないで、神に信頼しなさい」、との現代版福音のように聞こえたのです。
私が福島各地の避難所に散った教会員の幾人かを迎えに行ったのは、原発が最大限水素爆発したと言われる震災4日後の3月15日でした。当初は17人が私が来るのを待っている予定でした。けれども待ち合わせの場所に着いてみると、70人近くが集まっていました。その瞬間から私の心臓はバクバク、どきどきと鳴り続け、思ってもいないサバイバル逃避行が始まりました。お金はないし、60、70人の寝る場所の確保、ガソリンの調達、今日明日の食事と、いったいどうするんだと待ったなしの後戻りできない、当てのない集団逃避行のはじまりです。私は、1週間で9キロ痩せ、睡眠は3時間の日々が始まりました。絶えず緊張し、自分を保つのに精いっぱいの日々でした。
結局、知り合いの教会に宿泊をお願いしたのですが、17人ならともかく、これ程の大人数では難しいとのことで、なんとか2日宿泊をお願いして、その間に次の滞在場所を探すことになりました。けれども、その教会ではうどんや布団を用意してくださいました。多くの人が、泣きながら食べました。というのもある避難所では、3日間食べる物が出ませんでした。そこからいきなり温かい物が出されて、泣かずには食せなかったのです。うどん1杯で、あんなに感動したことはないのです。布団に横たわる、雑魚寝が始まりました。2人分の布団に3人ずつ寝ました。着替えはありませんでしたが、「布団に横たわれるのは普通じゃないと感じました。何十年もベッドに寝てきたのだけれど、今頃になってそのありがたみがわかった。山の上の雪が降る東北の避難所で、毛布もなくダンボールに横たわって、辛うじて3分5分寝たか寝ないか。腰も痛いし、布団は全然違う、極上だって」布団の一枚に、これほどに感激したこともなかったのです。