「福島から語る」Vol.11 松野みき子さん (2015年12月5日)

―震災・家族・コミュニティづくりのこと―

2015年12月5日
松野みき子氏(和みサロン「眞こころ」運営)

「眞こころ」は和める場所づくり
「眞こころ」は、仮設住宅にある集会所を利用し、被災者の皆さんが、狭い仮設の空間に閉じこもってしまうことを少しでも解消するため、新たな人との繋がりを作る場として、サロンという形でお茶やコーヒーなどを飲みながら、お菓子を食べながら気持ちだけでもゆったり和める場所の提供をと、始まった活動です。
サロン活動をすることになったきっかけは、当時、地元の消防団に所属していたことで、避難指示が出ている中、自分は避難せず、少しでも被災した人の代わりにという気持ちで、遺体捜索を続けていた、「眞こころ」代表の内田(雅人氏)が遺体と対面するたび、自分の育った場所、地域の人と人との繋がりが壊れて行く中で、大事な所はしっかり強く持って欲しい、人との繋がりは切れてはいけないとの思いで始まりました。
当時、ほとんどの人が心を病んでいました。一瞬で全てをなくし、支えあってきた家族と隣近所との繋がりが離れることで、気力をなくし、孤独や不安を感じていました。
中には、家族や大切な人がまだ見つからない中で、原発事故での避難指示があり、子どもたち、孫たちとの別れと、今後の生活の不安それぞれが、それぞれの想いの中、住む家がなくなり、または住めなくなり、日常が全て失われ、笑うことも奪われました。
そんな人たちの為に必要なことは、大変なのは自分だけじゃないと思える心の余裕だと思いました。まずは「笑っていいんだ」と思える場所を作ることだと感じました。私自身が一番必要だったのかもしれません。あの時は、笑うことは罪と、被災者は誰もが感じていました。

受け入れられない現実
笑顔でいれる人は、同じ被災地ではあっても、何も生活が変わらない人だけでした。そんな人を見ると、なんでこんな目に合わなきゃならないんだろう、そんな人たちを正直、憎らしくも思いました。それぐらい、誰もが不安定でした。避難所はいつもピリピリしていて、同じ被災者であっても、それぞれの状況で、全く感情も違います。私のように、家族の無事が確認されている人にとっては、いてはいけない場所でした。
そんな状況で、原発事故の避難指示です。南相馬市にはガソリンも全く入らず、支援物資まで入って来なくなりました。バスが集団避難のため、県外に向けて出されました。それでも、残る人は残りました。それぞれが一番辛いのは自分と思っている中で、現状を受け入れられる状況にはならなかったです。
仮設住宅が完成するまで、避難所での生活、親戚の家に身を寄せる人、自分で住む場所を借りる人、みんなが何とかしたくても、何もできない状況でもありました。