「福島から語る」Vol.10 佐藤彰さん (2016年11月19日)

それぞれの苦しみ
次に私が震災で強く思いを馳せた聖書の言葉は、詩編の119編71節です。卑しめられた経験は、よかったのだ。大事な掟を学んだのだから。別の翻訳では「苦しみに あったことは幸せでした」と訳されています。プライドを傷つけられたり、苦しむ経験は意味のあることなのだと。もちろん私たちが体験した苦しみはイエス・キリストの苦しみのいかほどでもありませんが、ただこれまでに経験したことがなかったものでもあったことは確かです。
お年を召した方は、目を覚ますとリセットボタンを押さないと一日がスタートしない。というのも、目を覚ますと、「ここは、どこの天井?」から始まります。「そうか、震災後の死にそうな経験から始まって、親戚の所へ転がり込み、最初は『大変だったね、可哀そう』から始まって、やがては『いつまでいるんだろうね』が聞こえてくる。深く傷つき、いっそ、誰も知らない所で被災者だと言わないで生活するのがいいと引っ越しを繰り返す。だから今は、知らない土地のアパートの天井を見て目を覚ました」。そこまで数分掛かり、「話す人がいないから認知症に気をつけようね」が合言葉になる。
子どもについては私の誤解がありました。小さい時の経験だから心の傷は浅いと。けれども若いお母さんから「それは違う。腕白な我が家の子も、夜な夜な布団被って泣いている」と。学校に行けなくなり、一日中家で爪を噛み続けるようになった子もいます。半端なストレスではありませんでした。福島から避難した子どもがいじめられたというニュースは氷山の一角です。本当に福島から来たなら、鼻血を出してみろ、と言われた子もいます。もちろん、逆の立場だったら、同じことを言った可能性もあります。

曖昧な喪失
この震災を通して私は知らなかったいくつかの言葉を覚えました。一つは、境界格差。キリスト教会の教会ではなくて、境界線の境界です。あのバイパスの向こうは、被害が少なくて普通の生活をしているのに、同じ番地のはずがこちら側は破壊されている。この格差は、いったい何?もう一つは、鋏状格差。鋏という漢字をかいて「きょうじょうかくさ」と読み、鋏が拡がっていくように、まるで股裂きのように格差が開いていく被災地の状態を指すようです。同じ震災に遭っても、一方はその後の復興景気にわき、車が流されたので車が売れたりと。他方、私たちの住んでいた被災地は、故郷が閉鎖となり手も足も出ず、みるみる荒れ果てていく現実がある。この格差は、なんだろうと。今、私たちの地域は、木が床を突き破って、家の中に生えていたり、イノシシとか泥棒などが家を壊して入り込んだりしています。我が家に帰るのにいちいち防護服を着、許可書を取らないと家に入れない現実があります。新築だった教会も建物の中はネズミの糞だらけです。ある家は、イノシシがガラスを破って侵入し出産していたり、と。
私の20年住みなれた家も、どんどん朽ちていく様を、ただ眺めているほかありませんでした。そんなふるさとと自宅を見て、腰を抜かし泣きはらし帰途についた婦人もいます。もはや5年前の3月11日の震災の日のままではない。どんどん状況は悪くなっていく。もうだめだ。そんな福島県を「曖昧な喪失」と呼ぶそうです。家があっても、住めない、帰れない。ならば、無いのと同じではないか。いや、無いよりももっと悪い、生殺しのようだ、と。あの時、ちいさかった子どもは15歳まで帰ることはできません。
5歳で被災した人は10年後の帰還です。自分の野山をかけ巡り育ったルーツの喪失。果たしてどれくらいの記憶が残るでしょうか。失くしたような、失くしてないような曖昧な喪失です。だけど下手に存在するから、後ろ髪を引かれて、前にも後ろにも進めない。自分の心のコントロールが非常に難しい曖昧な喪失です。