「福島から語る」Vol.10 佐藤彰さん (2016年11月19日)

震災の中の教会
それでは、ここで私たちの教会を写真で紹介します。私たちの教会は、この宣教師がアメリカから25歳で来て、田畑が広がる田舎に教会を建てました。その後派遣された牧師さんは苦労をしました。当時は出稼ぎの村でした。やがて、私が赴任した後に建てた教会堂、キリスト教のお墓、別の教会堂、このノアの箱舟風のチャペルは津波にあいました。次はちょっとおしゃれなチャペルです。最後は震災の直前に、苦労して建てた教会堂ですが、その後すべての教会堂が閉鎖になりました。そしてここに写っている人は、全国に離散しました。
その後どうなったかですが、教会の中はこの写真のように物が散乱して、教会の4、5軒隣の古い家は瞬時に潰れ、海沿いの町は津波で破壊されました。翌日、バスに乗れなかった人は、この写真のような自衛隊のトラックに乗せられて山の上の避難所へ。写真手前の右側の2人は教会の人です。そしていざ山の上に行ってみると、トイレもほとんど使えない状態だったり、毛布がない避難所も多く、雪も降ってきました。それで私たちは、50~60人で車十数台に分乗し、トラックやバスと共に冬山の峠越えをしました。会津で2泊、その後吹雪の中、米沢へと移動しました。積雪は3月だというのに、1メートルもありました。最初の2週間は、主に缶詰めを食べました。
これでは立ち行かないと考えた私たちは東京へと移動。1年間教会関連のキャンプ場に住みました。その後は、故郷が忘れられずに福島県の南に位置するいわき市に移動。旧約聖書時代のモーセのエジプト脱出さながら、シナイ半島約1周分の700キロの旅をしました。子どもからご年配の方まで一緒の、不思議な旅でした。その他の教会員は、群馬県とか、新潟とか、埼玉県等へ移り住みました。教会は引き裂かれたのだと思います。辛うじて私と一緒に集まって逃げた教会員は雑魚寝をしたり、心も体も震えていました。東京のドイツ人宣教師が責任を持つキャンプ場では1年間、お世話になりました。
ニュースで報道されたように、福島から来た子どもたちはいじめにもあいました。ですから東京では、いじめられないようにお祈りをし、キャンプ場からの転校でした。また、そこでは毎日礼拝をささげました。その年の7月、福島に帰る決断をして、涙の別れをしました。すなわち震災の1年後、ご年配の方々が共に肩を寄せ合って生きる住まい「エルシャローム」を建て、その翌年には教会堂の建設の必要に迫られ、故郷の方向を向き翼を広げ故郷の方向に飛んで行く形の、翼の教会を献堂しました。今では、地域の方も集ってくださり、大きな慰めです。ちょうどこの写真の山の彼方に、私たちの懐かしい故郷が眠っています。では、あるテレビ局が私たちの震災1年後を放映したテレビ番組をご覧ください。
(ここから映像です。)
―奥多摩時代が映る
次に、その1年後に放映されたものです。長いので、最後の場面だけ映します。
―翼の教会工事完成映像が映る
(映像、終わりました。)
長い時間観て下さり、感謝します。