「福島から語る」Vol.10 佐藤彰さん (2016年11月19日)

悪夢のような光景
3月11日、私は千葉県にいたので、教会の近辺はどうだったのかを当時の副牧師に聞きました。町の人が泣いていたと、彼は答えました。大熊町は人口が1万人で田舎だから、それほど車の数が多くないとしても、その日その町を走る車の女性ドライバー全員が、一人残らず涙を流していたというのです。次の車の人もまたその次の車の人も、「うちの旦那は生きているだろうか。うちの娘は保育園で?」と。全ての女性ドライバーが泣きながらハンドルを握っていたと。
震災直後は、結婚式をみな取り止めました。けれど、ある女性は挙げざるを得ない事情がありましたが、そこでおよそ花嫁の挨拶とは思えない言葉を聞きました。「許されるなら、このあつらえたウェディングドレスを脱ぎ捨て、喪服に着替えたい」と。どうしてあのような挨拶をしたのでしょう。その日、彼女は海岸端の家の2階の部屋から、大津波が泥を掻き揚げて、真っ黒な化け物のような様相で、踊るように防風林の松の木の遥か上を乗り越えて来るのを見たそうです。その瞬間に体が凍りつき、次に、鉄筋コンクリートのテトラポットを軽々と転がし始め、ご近所の家々を次々と押し流す悪夢のような光景を見たからだ、と言いました。
そういえば私たちも逃げる途中で、メールが入り血の気が引く経験をしました。もぬけの殻となったゴーストタウンの故郷に泥棒が入って、取りたい放題やっているという内容でした。教会も新築だったので、避難所となるように、わざわざ鍵を掛けずに出たのです。誰もがその時は、直ぐに帰れると思って、犬は首輪に繋いだままで、ふるさとを後にしました。それで家族同然の犬猫の悲惨な餓死などが起こったのですが、とにかく、貯金通帳も置きっぱなしだった私たちは、急いで逃げながら、銀行口座を止めました。嘘だといいがなと思いましたが、残念ながら本当でした。教会によく出入りをしていたご婦人は、新築の家に帰ったら、空っぽだったそうです。電化製品も応接セットもみんな持っていかれて、その後一時人間不信となり、食事が喉を通らず、みるみる激やせしてしまったと聞きました。
放射能に関する誤解も多くみられました。ある人は、震災直後トイレに入れてもらえませんでした。原発の近くから逃げて来た人は、被ばく者専用トイレの張り紙がしてあるところに入るように言われたのです。これは、差別ではないのかと思って悲しくなったそうです。教会に来ていたある方は日本海の方に避難し、ほとほと疲れきり、体調を崩して病院に行くと入れてもらえなかったそうです。原発の近くに住んでいた人は被ばくの可能性があり、外に立っているように言われたと。病院でも当時混乱していたのでしょうか。
住み慣れた我が家を追われる体験は過酷でした。存在が根っこから引き抜かれ、プカプカと宙に浮くような、自分が何者かもわからなくなってしまい、人との距離感もつかめなくなるような、なんとも言えない経験です。それにしても、身も心も疲れ果てて病院に行ったら、寒空の中、入れてもらえないとは、なんということでしょう。結局、母を案じて寄り添っていた息子がキレて「僕のお母さんは病気じゃないか」と、無理矢理手を引いて病院の中に入っていったというのです。「あの地域に住んでいたというだけで、どうしてそんなことを言われなければいけないのか」「私たちはそんなに汚く、疎ましいだろうか」と、悲しくなりました。
またある教会員は、原発から2キロに住んでいました。2キロは危ないです。3世代で関東地方に急いで逃げたそうです。そして逃げた先の市役所に、避難先の住所を届けに行ったら、お役所仕事だったのか、受け取ることは出来ないとの対応だったとか。それどころか「あなた方は何しに来たのですか。物が欲しいのですか」と言われ、深く傷ついたと。自分たちは物乞いではない。普通の日本人だ。あの地域から来たというだけで、どうしてこんなことを言われなくてはいけないのかと、思うのは当然です。