教会員の物語
ここからはお話ですが、聖書の言葉を手掛かりに進めたいと思います。最初に映った聖書の言葉はペテロという元漁師が、故郷をなくした人々に書き送った手紙です。原発事故でではなく、地震でもなく、迫害でした。火のような試練は人生にあるが、悲しんだりしないで喜べと書いてあります。
私は牧師ですが、喜べませんでした。私の誕生日は震災と同じ3月11日で、その日は、関東地方の神学校の卒業式に出席していて、そこも揺れました。けれども故郷はマグニチュード9で、私たちの地域は震度7弱といわれていて、報道では2時間後の大津波でしたが実際は8分後の津波でした。何から何まで想定外でした。高さ14、15メートルのコンクリートの壁のような大津波が故郷を襲ったのです。翌朝12日は、故郷では早朝からサイレンが鳴り響き、原発事故についてはアナウンスしなかった地域が多かったのですが、とにかく逃げろと言われ、まるで空襲警報のように、町民は山に向かったのでした。全町民を収容する場所の確保は難しく、道路は渋滞。5分の距離を2時間かかったりして、それは過酷な避難でした。私は千葉に身を置き、何ということが起こったのかと動転していました。教会の近くに住む90歳のご婦人は、夜中の2時に山の避難所に辿り着くまで12時間かかったそうです。その間、トイレ休憩は1回しかなかったのです。彼女は外に立ち大型バスが来るのを待ち、結局幌付きの軍用トラックに担ぎ上げられて、必死にしがみつきながら、振り落とされまいと山頂の避難所へと向かいました。その後彼女は3日間、避難所で一睡も出来なかったのです。また、当時の副牧師は(今は牧師)当初奥様と赤ちゃんを連れて逃げましたが、途中から夫婦別れ別れとなり、奥様は避難所で食べるももがなく、お乳が出なくなってしまいました。その上、毛布もなく、東北の寒い山の上の板の間に赤ちゃんを寝かせるわけにもいかず、お腹の上に赤ちゃんを乗せ、体温で温めながら一晩を過ごし一睡もしなかった話などを聞き、私は報道とまるで違うじゃないか、なんということが起こったんだと憤慨したのです。
実を言えば牧師であった私は、何事もない平穏な日に教会に通い、讃美歌を歌っていたあの人もこの人も、さすがに今回直面した震災で「もう、何も信じない。神様は私たちの地域が嫌いなのだ」と言うのではないかと恐れたのです。しかし、やがて携帯電話が通じるようになると、例えばあるご婦人は、海岸端の息子が待つ家に急いだそうです。すると津波が後ろから追いかけてきたと言うのです。「ここで死ぬわけにはいかない」とアクセル全開で、津波を背に逃げたというのです。そして、「あの時、神を感じた」と証言しました。私の教会員が、信じられない出来事の中で神を体験したのだと知りました。先ほど放映された内容は60歳代の教会のご婦人で、心臓が急に握り潰されるような感覚になったそうです。沢山の人がそんな感覚に陥りました。病院に行くと、すぐ手術で、その後入院させている時間はない、放射能がこの病院にも迫っているから逃げなさいと言われ、逃げたというのです。そして、私は神様に救われたのですと言いました。それらの証言の一つひとつが私にとっては結構な驚きでした。私は次の聖書の言葉を思い出しました。「神様はあなたを愛している。水の中でも火の中でも流されないし、炎があなたに燃えつかないほど、あなたの名を呼んだ。あなたはそれほど、大事な存在なのだ」(イザヤ43章)
私が震災時最も心配した教会員の一人は90歳近いご婦人で、築80年の古い家にお住まいでした。震災の数週間後、東京のキャンプ場に直接電話がかかってきました。まさか「生きていましたか」とは聞けない私でしたが、彼女はこう言いました。「先生、あの家には神様がおられました」確かに、古い家なのによく持ちこたえたと私も思いました。しかしその後、どのようにして逃げたのでしょう。車椅子で一人ぼっちのはずでした。すると、教会の人が来て、車椅子を押し、避難用の大型バスの入り口に立ち、「体の悪いこの方を最初に乗せるべきだ」と立ちはだかったのだそうです。結果、自分を避難所のバスに一番に乗せ、その夫婦は最後に乗り込んで、以来、ずっと群馬県からあちらこちらと、まるで家族のように、もしかしたら、天使の翼に乗ったかのようして旅を続けたというのです。そのようにして、最終的に娘が住む東京に辿り着きましたと。
私は知りませんでした。千年に一度と言われる巨大震災の真ん中で、このような暖かい物語が綴られていたことは。牧師である私は、どの人が生きていて、何人が行方不明で、誰が亡くなっただろうか、とばかり考えていましたが、それ以前に、神様が大牧者で、大切な羊である一人一人をどれほど追いかけ、名を呼んで、そして愛されていたのかと思ったのです。こんな聖書のはじまりを、大震災の最中に改めて知らされました。
私たちの教会は福島県の太平洋側にありましたが、日本海まで逃げた人もたくさんいました。ある親子はそこで心が折れそうになり、人々でごった返す体育館で「神様、もうもう駄目です」と祈ったそうです。祈り終えて目を開けると見たことのない若夫婦が立っていたそうです。そのご夫妻は日本海側の違う教団の教会に通う初対面の人でした。私たちの教会をインターネットでずっと追いかけながら心を痛めていたというのです。そして、日本海まで辿り着いた親子がいると知り、矢も楯もたまらずに、人々でごった返す体育館の中を探して来ましたと。買い物も、教会もお連れしますと。それからはずっと避難先で、親身になってお世話してくださったそうです。なので新潟を離れる際には、泣きの涙でした。もはや新潟は第二の心の故郷ですと語りました。あの尋常でない大震災の真中で、そのような物語が綴られていたとは、知りませんでした。
一見すると、「この世界に神など存在しない。誰の意思も存在しない」とうそぶきそうになる余りの大震災映像。しかし、私は今「人生でどのようなことが起こったとしても、信ずべきことは、それでも神は存在しておられる。それでも神はあなたを愛している。」と語るようになりました。