「福島から語る」Vol.8 大内信一さん(2017年9月23日)

そんなことがあった時に、どこか新天地を求めて、福島を離れるという人もいっぱい出てきました。うちらの仲間にもそういう人が出ました。ここで本当に農業ができるのか、そういう苦しみ、放射能の恐ろしさを感じたわけです。
そういう時に、放射能対策ということで、全国から多くの先生方が福島に駆けつけてくれました。我々も1週間に2回ぐらいは、そういう先生方の話を聞きに講演会に行ったりしていました。チェルノブイリ支援をしている名古屋の河田昌東(かわだ まさはる)先生という方が何回も来まして、チェルノブイリの例を出しながら、我々にいろいろと教えてくれました。作物には放射能の好きな作物と嫌いというか、吸わない作物があるということです。チェルノブイリの例ですが、一覧表をつくってみると、一番吸わないのはナス、キュウリ、トマト、その次にニンジンです。一番吸いやすいのはナタネとかヒマワリで、作物によっても差があるというのを知りました。
その頃、放射能検査器もそちこちに入りまして、いろいろ作物をきめ細かく測ったわけです。そうした時にいろいろと見えてきました。ほうれん草はもちろん葉っぱで受けているくらいですから出ます。ところがネギは出ないんですね。ネギは真っ直ぐ立っているし、すべすべしているから放射能は全くついてなくて、我々のネギを大阪の生協がぜひ1年間通して欲しいというので、ネギをいっぱい作付けしているわけです。福島の野菜ということで、すごく厳しく測ったんですが、うちで測っても大阪で測っても出ないので、ネギだけは続けて出荷していました。
キャベツも丸まってますから、表面には放射能が出ても、皮を剥けば大丈夫。大根とか白菜とか、貯蔵したものは大丈夫ということで、何とか一部出荷できました。うちは有機栽培をするとともに、消費者との提携という形で、直接、野菜や米を届けている。また、生協を通して消費者に届けるという形、農協とか市場に出荷するのではない提携というやり方で有機農業を続けてきたわけです。生協も、直接の提携も60%が我々の野菜や米を食べるのをやめました。本当に残ったのは40%。しかし、我々は「ぜひ食べてくれ」とは、その段階では言えなかったわけですね。我々の食べ物を食べて、放射能の害というより、ストレスを感じるようではいけませんから。だから、我々は本当にじっとこらえるしかなかったわけです。
そんな状況でしたが、そういう時に、日本の稲作りの先駆者、近代の人ですが、お父さんが長野県出身で、内村鑑三に師事したクリスチャンの息子さんの松島省三という人が一冊の本を出していました。農業試験場にいる時に、一般の人にも分りやすく書いた『測り縄は楽しき地に』という本に出会ったんです。うちらは愛農会に属しているのですが、愛農会の雑誌に書いた記事を印刷したのが皆さんにお渡ししたプリントの中に入っていると思います。我々がどうしようかと迷っている時、福島から離れて新しい土地で農業をしようとする人たちが出てきました。新しい土地で農業をするなんていうのは並大抵のことではないわけです。新しく土地を求め、その土地のいろいろな条件とか気候とかが今までとは全く違いますから、大変なんですが、神様は人間に「測り縄」を与えられたのだと思います。「測り縄」というのは、昔、「けんなわ(間縄・検縄)」といって、1メーターおきぐらいに印がついていて、面積を測ったりするものです。大工さんが建物をつくる時使う、「下げ振り」と言って、重りがついたのがあります。旧約聖書のアモス書(7章8-9節、17節)に、その下げ振りが、神様の鉄槌として使われる場合もあるとあります。そういう取引とか家族とかに与えられるのは神様の「測り縄」、神様の意思であるので、それを素直に受け入れながら、そこを楽しき地に、うるわしき地にという、そういう文章で、松島先生は自分の家族のことを書いています。奥さんは、目が悪かったそうなんですが、その奥さんをすごく大事にするので、子どもたちが不思議に思っていたくらいだったそうですが、ある時、娘さんの結婚式の時に、自分はこの奥さんを神様からの「測り縄」としていただいたということを話したそうで、その奥さんを大事にすることが子どもたちにもわかったということです。そういう感動的な話があります。
私が話すのはなかなか難しいんですが、そういう文章に出会いまして、この原発は福島に対する、日本に対する鉄槌でもあると思いました。しかし、やっぱり神様からの「測り縄」の中で生きる道は絶対ある。神様はそのように試練を与えますが、逃れる道も必ずあるという言葉も聖書の中にあります。その「測り縄」の背後にある神様の思い、神の存在を改めて感じながら、力もいただいたわけです。