「福島から語る」Vol.7 湯野川政弘さん(2015年5月15日)

―原発事故から4年 自主避難者の秘めた思い―

2015年5月15日
湯野川政弘氏(ハートウェッジ福島 代表)

皆さん、こんにちは。私は湯野川政弘と申します。今日は、「原発事故から4年 自主避難者の秘めた思い」と題して、福島からの自主避難者として、東日本大震災・原発事故から4年間の福島の状況、そして私たち家族のことをお話しさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

 私の家族は、私と妻、小学校5年、3年、年長の3人の子ども、そして78歳の母の6人家族(震災当時)です。
私は、福島市の立子山(福島から東に約10キロ)という場所で酒屋を営んでおります。店の前を通る国道114号は、福島市から川俣町を通って浜通りの浪江町につながっています。福島原発からは直線距離で約50キロの位置にあります。
3月11日に起きた東日本大震災では、マグニチュード9.0の巨大地震と大津波が東北を襲いました。そして、12日から15日にかけて福島第一原子力発電所が次々と爆発を起こし、大量の放射能が国道114号に沿って福島方面に飛んできました。そして、その日を境に、平凡で穏やかな私たちの生活が一変してしまいました。

福島第一原発が1、3、2、4号機と立て続けに爆発した時に飛んだ放射性物質は、福島原発から約60キロ離れた福島市で15日の夜に23.88マイクロシーベルトの数値になり、通常の478倍の放射能が福島市に降り注ぎました。そのニュースを16日の朝に見て、このまま立子山にいては危険だと考えまして、福島市の西部、笹谷地区に嫁いでいる娘がおりましたので、至急そちらに避難しました。また、母は、私の妹がやはり同じ福島の西部、大笹生地区に嫁いでいるので、そちらに世話になり、しばらくの間、家族全員で福島市の西部で過ごしておりました。その後、末娘の保育園から卒園式を行いますという連絡が入り、一度、福島の立子山の自宅に戻らざるを得なくなりましたが、妻の妹が青森県の十和田市に嫁いでいましたので、春休みの間はそちらに避難させようと思い、保育園の卒園式の翌日には妻と子どもたちを青森に避難させました。母は引き続き妹の嫁ぎ先で避難を続け、私は店の仕事があるので家に残り、1~2週間の間、家族離れ離れの生活を過ごしました。

そんな中、子どもたちの通う小学校から通常通り4月に入学式をやります、授業を始めますという連絡が入りました。ちょうど一番下の娘が小学校1年生に上がる年齢だったので、やむを得ず青森から戻り、立子山小学校の入学式に出席し、6年生・4年生・1年生の子どもたちは3人で通学することになりました。
最初は、マスコミ、テレビ、新聞では放射能の報道はあまりなかったのですが、だんだんと福島市の放射能汚染の状況がわかるようになってきました。「学校に通う子どもたちは帽子を必ずかぶってください」「マスクを必ずしてください」「肌を出さないように長袖、長ズボンの服装にしてください。スカート姿はだめです」といった状態でした。そして、学校のグラウンドも放射能の数値が高いので校庭で遊ぶことも全然できない状況の中、これからどうして過ごしたら良いのかわからない状態が続きました。

報道では、国と福島県は「ただちに健康に影響はない」と繰り返すのみで、それ以外の情報は全く伝わってきませんでしたが、4月の中旬、最初は問題ないと言われていた飯舘村と川俣町の山木屋地区が、放射能が高いため計画的避難区域に指定され、地区の方全員が避難することになりました。私の家から約10キロ、車で30分もかからない場所です。ですから、立子山も放射能が高いのではないか、家族に放射能の影響があるのではないか、この地区にも避難指示が出るのではないかという心配があり、避難を考え始めていた頃、学校での屋外活動の放射線基準が年間20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)という非常に高い数字に設定されました。そして、内閣官房参与をしていた東大教授の小佐古(敏荘)さんが涙を流して、自分はこんな数値には納得できないと政府の安全基準に抗議して辞任されました。そういう方が抗議の辞任をされたぐらいですから、私としても本当にこのままではいけない、この場所で子どもたちを生活させ被ばくさせるわけにはいかないと考え、ゴールデンウィーク中も東京の親戚宅に子どもたちを避難させ、これからの避難先を探し続けました。

山形県の米沢市は福島市から50キロくらいしか離れていないのですが、なぜか放射性物質があまり飛んでいないということがわかり、米沢市の危機管理室に問い合わせたところ、「いつ避難して来てもいいですよ」という返事をいただきました。ただし、入居先は雇用促進住宅で部屋も指定できないが、そこでよかったら自主避難者も受け入れているというので、早速、米沢に避難をする決断をいたしました。
ただ、母は高齢ですし、店もありますので家を離れ難いということで、一人で立子山の自宅に残ることになり、妻と子どもたち3人を連れて平成23(2011)年5月の連休明けに山形県米沢市に避難しました。転校しなければならないことに対して、子どもたちはとても嫌がりました。いつまで避難するかはわからないけれど、とりあえず一度避難してみようと説得して避難しましたが、あれから4年が経ち、今に至っているわけです。