「福島から語る」Vol.7 湯野川政弘さん(2015年5月15日)

米沢市からの通勤距離は大体50~60キロ、車で約1時間半かかります。極端に遠い距離ではないのですが、毎日往復で通勤するとなると結構きついものがあります。特に、冬期間は想像を絶する困難に見舞われました。路面凍結、地吹雪による視界不良、ワイパー凍結、そして最大の難所・栗子峠越えでは大型車の立ち往生やスリップ事故が多発し、私自身もスリップで雪の壁にたびたび衝突したり、雪の轍にタイヤがはまったり、積雪道路で立ち往生したりと、危険な場面に何度も遭遇しています。
避難した雇用促進住宅は、部屋の中には照明器具、カーテン、冷蔵庫、洗濯機、テレビなどは一つもなく、シャワーもない浴槽があるだけの簡素な住宅でした。ですから、必要なものを家から少しずつ運びました。しかし、自宅でも母が生活をしているので、全部運ぶわけにはいきません。必要最小限のものを買ったり、いただいたりで、何とか頑張って生活してきました。

その後、日本赤十字から家電セットを支給していただき、支援団体から台所の湯沸器が届いたのは12月を過ぎてからでした。それまでの間は、食器などもずっと水洗いです。古い雇用促進住宅なのでお風呂にもシャワーがなく、水をためて追い焚きして沸かす方式でした。夏場は暑いから、子どもたちにシャワーを浴びさせたいと思っても、水をいっぱいためて沸かしてお風呂に入り、そのお風呂の湯で身体を洗う、そういう状態での生活でした。
慣れない避難生活が始まりましたが、私は朝早く家を出て、帰りも夜遅いという状態で、土・日も休みがなかなか取れず、子どもたちと触れ合う時間が極端に減ってしまいました。その上、子どもたちは転校して新しい学校や友だちになかなか慣れず、また、家族5人で3DKという狭い団地生活のためにのびのび振る舞えず、次第に家族全員にストレスがたまっていきました。
子どもたち自身も情緒不安定な状態に陥ってしまい、放射能・被ばくの不安、慣れない避難生活や団地生活の不自由さ、子どもたちの情緒不安定を一人で抱え込んだ妻は、そのストレスからくる高血圧症で倒れ、団地から救急車で病院に運ばれたこともありました。本当に、避難してから半年くらいが一番大変な時期でした。

避難区域外からの避難、いわゆる自主避難の人たちは、浜通りの浪江町、双葉町、大熊町等の避難区域の方々とは違い、賠償は全然認められていません。その上、支援そのものもほとんどない状態でずっと生活してきました。家族が福島に残り、母と子どもだけが避難をしているという二重生活の方も多くいます。私のような自営業ですと、朝の出勤の時間や、帰りの時間などはある程度自由がききますが、お勤めの方は朝の決まった時間に会社に行かなければなりませんし、帰りも残業で何時になるかわかりません。結局、平日は勤務先のある福島に残り、週末だけ米沢に来るというお父さんがほとんどです。当然、お子さんたちともなかなか会えません。そういう状況で生活していますので、精神的にも不安定になってしまいます。ましてや、米沢市より遠い山形市や関東・関西などの遠方に避難している方々は、お父さんが一人で福島に残り、お母さんと子どもだけで避難して別々の生活をしている方々も本当に多いです。

そうした中、私たち夫婦、特に妻は、「何かをしなければ、ただじっとしてはいられない」と思うようになり、子どもたちの学校のPTA活動や、地域の町内会活動に加わりました。私も雇用促進住宅団地にいた時には、団地の自治会長を半年間やらせていただきました。
また、「福島原発避難者の会」を立ち上げて、主に行政・国に対して「私たち避難者はこういう状況です」と、実情を訴える活動もしておりました。米沢地域は心優しい方々が多く、私たち避難者ととても仲良くしていただき、それが心の支えとなって頑張れたのではないかと思っています。
2年間、雇用促進住宅に住んでいましたが、上の子が中学生になり、子どもが女の子と男の子のため、狭い住環境では生活面での対応が難しくなってきましたので、米沢市と山形県に住み替えを申請し、特例として、米沢市内の一戸建ての貸家に転居することができ、現在はその借り上げ住宅で生活しております。
そして、2014年の4月、新たな活動を始めようと思い、避難者の方々と一緒に「ハートウェッジ福島」という団体を作りました。米沢には自主避難者の家族が多くいますので、その方々との親睦活動、支援してくださる団体の方々との交流、支援活動の受け皿になれればと、1年前に団体を立ち上げて活動を行っております。去年は長井市でCTVC、米沢教会、長井教会の皆様と一緒に芋煮会を、今年の春は米沢でお花見会を催しました。