「福島から語る」Vol.4 佐藤優一郎さん(2012年6月22日)

2011年3月11日(金) 14時46分   大地震
3月12日(土) 15時36分   原発1号機水素爆発
3月14日(月) 11時01分   原発3号機水素爆発

2012年6月22日
佐藤優一郎氏(福島県浪江町 福島市宮代仮設住宅自治会長)

宮代の仮設住宅から来ました佐藤です。昨年の3月11日の震災、そして原発の爆発と放射能、強制避難を余儀なくさせられ、早や1年になります。
自然災害だけなら、もうとっくに故郷浪江町の我が家に帰還していると思います。原発さえなければ、爆発した放射能さえ飛散しなければ、と思うと本当に怒りを覚えます。
後々、何年経てば、我が家に帰れるのか、それとも帰れないのか。帰れないのかと思うと大変つらいものがありますが、私たちには故郷を守り、子々孫々までつなぐ責任があると思います。
それを自らの手で作った原発で、村、町、県、強いては日本、人類を滅亡させてはダメだと思います。それらを稼働も停止も出来るのは、立地の村、町の住人、県民だと思います。

東北大震災  2011年3月11日
死 者 = 15,777人
行方不明 = 3,465人
19,242人

   浪江町
死 者 = 149人
行方不明 = 35人
184人

2011年3月11日、いつものように起き、いつものように会社へ行きました。私の仕事は送迎バスの運転手でした。
この日の勤務は朝3時間、夕方3時間でした。長い休みが間に入る為、いつも一旦家に帰り、そして夕方仕事をして1日が終わる予定でした。
ところが我が家で休み、14時16分テレビを見ておりましたら、突然テロップが「緊急地震速報、緊急地震速報」と流れています。
慌てて石油ストーブを消し、階段を降りようと、2,3段降りたところ、体が右へ左へ、壁にぶつかり足が宙に浮き、真っ直ぐ前に降りられません。
尻餅をつきながらも、やっと下に降りました。そして8畳で休んでいる義母のところへ行ったところ、90歳の母は慌てふためいておりました。
体を右へ左へ前に後ろに、それこそ阿波踊りを踊っているようでした。母の手をやっと掴み、背中におぶり、庭へ出ようとしましたが、揺れが激しく、タンス、茶ダンスなども倒れ、家から外の庭へ脱出することが大変困難な状態でした。

しかし何とか踏ん張り外へ。今度は屋根からグシ、瓦が落ちてきました。ブロック塀も崩れています。
大変危険な状態です。ものすごいものです。周りを見たら、道路が割れ、家が傾き、地獄絵図を見ているようです。揺れが少し収まったところを見計らい、車庫から車を出し、母を乗せ安全な場所へ移動しました。
そしてご近所の高齢者に声をかけまわりました。幸い、ご近所の方は全員無事でした。