「福島から語る」Vol.4 佐藤優一郎さん(2012年6月22日)

今度は、余震です。余震もすごいものです。家の中で音がしています。何か倒れています。そうこうしているうちに、周りも薄暗くなってきましたが、停電で電気がつきません。
外に出しておいた車のエンジンをかけ、テレビをつけて、初めて自然災害の現実を知りました。マグニチュード9.0、震度6強と知りました。
地震後、津波が防波堤を越え、家、車、そして人間にも襲い掛かっています。町を壊しています。
大変なことになっているとテレビの映像で改めて知り、怖くなりました。そうしているうち、私の周りが少し騒がしくなりました。
私たちの浜、請戸港も地震で大打撃を受けている、家、車、浜が全滅と。死者も出ているとのことです。体育館にぞろぞろと避難して来ています。大変な事になっています。

続々と学校に避難して来ています。周りもすっかり暗くなっていますが、停電と空腹と余震の不安で、寝ることも出来ません。
家に入ることも出来ませんので、外の車で仮眠を取り、朝を迎えることになりました。寝不足と恐怖と疲れで頭が回らない中、12日朝、6時15分頃だと思います。
町の防災無線が「緊急事態発生、緊急事態発生、避難してください」と鳴り響いています。
訳が分からないまま、家族を車に乗せ、国道へ出ました。もう大変な渋滞です。普段なら30分位で着くところ、3時間かかって、やっと津島高校の避難所に着きました。

体育館の中は入りきれないほどの浪江町人でいっぱいで、それこそ足の踏み場もないくらいの混雑です。
私は兄弟、親戚と安否確認の為、携帯で連絡を取りましたが、電波の状態が悪く、通信不能です。外部との連絡は全然取れません。

情報も何も取れない中、あってはならない、起こってはならないことが起こってしまいました。安心・安全の神話が3月12日、崩れてしまいました。
私には分からなかったのですが、津島から見て、南東の方角から15時36分、大きな爆発音がしたと言います。何らかの情報を持っている人、無い人、ひそひそと話している人とに別れています。
その頃、津島の避難場所には浪江町人の半分近くの数千人が避難して集まっています。無情報の中、水素爆発で吹き飛んだ放射能は西北へ、私たちのいる所へ向かって流れて来ています。
それでも、危険情報の連絡は町からも、県からも何もありません。避難はしていても、普段と変わりません。何も分かっていません。夕方、赤ちゃんのこぶし大のおにぎり1個の配給がありました。
3月11日の夕方から殆どの人がまともな食事をしていません、出来ませんでした。館内にいる人は外へ出て、並ばされて、おにぎり1個だけです。

その間多分、放射能は上空、地上を汚染していたと思いますが、無色透明の為、私たちの体には痛くも痒くもなく、警戒心も恐怖心も何もない為、どれ程の放射能を浴びたかは計り知れません。
津島の避難場所にはまだまだ雪が多く残っていました。夕方の寒さはかなりなものです。着替えもなく、暖を取るストーブも数個しかありません。
新聞紙を体に巻く人、段ボールを下に敷く人、寒さ対策の為、必死です。体育館の中は相当な寒さです。冷えます。よく眠れないまま明け方を迎えました。
寝る前は窮屈な思いをして寝たのに、周りに余裕があります。隙間がありました。玄関に出てみて初めて知りました。新聞がありました。第1原発が12日、水素爆発したと大きく報道された新聞です。

それで、やっとこれまでの一連の流れが分かったような気がしました。原発が爆発し、放射能が私たちのいる津島方面へ流れ、私たち浪江町民が半分以上集まっている津島、飯館を汚染していることが分かりました。
3月13日、動揺は拡がりますが、正確な情報は何もありません。一体どのようにしたらいいのかも分かりません。指示を出してくれる人もいません。消防団に訊いても分かりません。
あんなに大勢いた避難民が自主的に逃げようと、少しずつ福島方面に移動しています。それでも残った私たちに正確な情報、指示をしてくれる人はいません。
食事は相変わらず外で並んでの手渡し。トイレは壊れ、外に穴を掘り、用を足す。灯油も切れる寸前でした。14日にも3号機で水素爆発です。
体育館にも新聞が届くようになりましたので、避難民の殆どが新聞にかぶりつきです。
今、何がどうなっているのか、段々と分かって来ていますが、原発から10キロ以上離れているから、放射能から安全だと思っていましたが、避難民の数も少なくなっています。