「福島から語る」Vol.13 桜井勝延さん (2019年6月22日)

震災、原発爆発、避難
桜井勝延です。2010年から2019年の1月まで南相馬市長でした。震災はまるまる私が引き受けたといっても過言ではありません。
今日は命の問題についてお話しします。
3月11日は、中学の卒業式でした。私は午前中に、原町第二中学校に行って、卒業生、家族にお祝いと希望に満ちた未来のために頑張って、という挨拶をした。それから3時間後、2時46分に、マグニチュード9.0、南相馬市で震度6弱の地震、その後21メートルの津波に襲われました。前の年の平成22年(2010年)2月に私が市長になった直後チリ地震津波があり、東日本一帯に警報が出されました。45センチの津波でしたので、高波くらいでした。最大で15人程度しか避難しなかった。1年後の3月11日に21メートルの津波が来るとは想像しませんでした。畑で野菜をとったり、漁船に乗っていた方もありました。
結果としては636人というのはわかったのですが、当時は2,500名以上の行方不明者がいるといわれていました。私も含めて、災害対策本部を開いたり、命を救うために救助活動を消防団とともに行っていました。あの消防団がいち早く救助に入って9人が殉職しました。行政区長、自治区長は、その地域の人を守るため、4人、犠牲になった。
翌日、3月12日に原発が爆発して、20キロ避難指示が出された。でも、南相馬市には一切連絡が入らない。知ったのは、テレビのテロップで、20キロの避難指示が出たということで、はじめて南相馬市民を避難させなければいけない。でも、津波で遺体が次々とあがって、救助活動をしている最中の出来事です。そのときに、捜索活動を中止して避難しろといっても、避難できない人もいます。避難しろといわれて、では、どこに避難すればいいか。
避難所を開設したときには、1つの学校に2,000人以上入っていました。それ以上は入れないので、次々と自主避難で福島とかに行ったりしました。私が福島に行った時に、南相馬市民は受け入れないと言われました。放射能が移るから。福島でも、その日のうちに差別が始まっていた。南相馬市民は風呂に入るなといわれた。
ところが、福島市の方が空間線量が高いと。南相馬市の3倍の空間線量を福島市で観測した。南相馬市は当時3~5マイクロシーベルト。福島市は10~15マイクロシーベルトあった。飯舘村は30マイクロシーベルトを超えていて、なんと浪江町津島地区は300マイクロシーベルトを超えていた。ところがその飯舘村にも津島地区にも一山越えて避難した人たちもいた。避難したがために被爆した人たちもいた。浪江町の馬場町長は役場から津島支所まで全町民を避難させた。結果として全町民をより被ばくさせた形になった。警察や自衛隊員が防護服を着ているのに市民には線量計もない。計測するものさえ渡されていない。
私は3月15日から、自主判断で市外に避難させました。市内のバス会社の社長と連絡が取れた。社長曰く、浪江から津島に住民を運んで、それが終わったら南相馬市に行くから、といっていた。
3月14日に3号機が爆発しました。爆発の衝撃波で、バスの運転手が、バスがバウンドしたようだったと。警察がその時、私に報告したのは、3号機が爆発したときにキノコ雲が上がったと。私は見てなかったが、のちに画像を見ると、キノコ雲と勘違いしても間違いないほど、まっすぐ上がっていた。あの爆発が、結果として、最大の汚染をもたらした。
なぜ国が現場に連絡をよこさないのか。国の機関が南相馬市にもありますが、3月12日に1号機爆発の時点で、県のオフサイトセンターが大熊町から引き揚げて、福島市に持っていってしまった。なので、どれぐらい汚染されているかわからない、計測する機械もなかった。
右往左往したのは市民ですが、私の独断で、相馬市、伊達市、隣の宮城県丸森町などに避難させました。その時に飯館村の菅野村長は、飯舘村がそれほど汚染されているとは思っていなかった。私は村のスクールバスを7台貸してくれといって、それを使って伊達市まで、350人ぐらい避難させ、相馬市民も別な会社のバスで避難させた。このときでさえ、屋内退避を出した国から南相馬市には連絡がこない。すごい国だと思った。
3月15日にバリケードを張られた30キロには物資が入ってこない。