「福島から語る」Vol.13 桜井勝延さん (2019年6月22日)

いのちを守るということ
一方、津波で、原発事故で避難するなか、私が50日間役所に泊まっていた時、5月に瓦礫の中を走っていて、ハマヒルガオが咲いているのを見つけて感動した。小魚、イトトンボが復活していた。命って素晴らしいと思いながらも、今度は復興事業が入ってくるとコンクリートで堅められて、彼らの命がなくなる。人間を守りたい、それはわかる。でも人間も生かされているのではないか。あの昆虫たち、トンボにしろ花にしろ、必死に生きている姿は共有できるはずではと思ってきた。
9年たって、海岸はコンクリートになっているので、元の姿は全くありません。私は命を守るため防潮林を作りますが、環境省は、瓦礫は燃やせと言っていたんですね。ですが、岩手県の災害瓦礫であれ、受け入れを日本中が猛反対をしてたじゃないですか。ましてや福島などという言葉は一切出てこない。瓦礫処理などやってないんだから。福島のものを持っていく、それをいったら、大変なことになる。

避難計画?
南相馬市は原発立地の自治体ではないので、余計なお金を国からもらってはいなかった。でも被害だけは、63,000人も避難させられ、513人も殺されているような状況に追い込まれて、それで国の皆さんが、再稼働や、再稼働の条件として、さきほど川内原発のことも話しましたが、避難計画を作れというのです。避難計画など誰だって作れます。計画を書けばいいだけだから。でも、現実に爆発が起きたら、どこに避難するかなど、誰も指示できない。市民が勝手に避難するから。右往左往して交通渋滞が起きて、自分が線量もわからないところに避難するわけです。そういう計画だけ作ればいいのでは、おおよそ、まやかしでしかない。なぜ、生活を豊かにするためにエネルギーを作るのならば、逃げることを前提にしたエネルギーを作るのか。冷静になればわかります。なにかあれば、避難することを前提として電気を作りましょう、とはならない。太陽は毎日降りそそいでいる。風は毎日吹いている。なぜこういうエネルギーを利用しないのか。火力発電でさえ避難計画は作りません。避難計画を作って、逃げることを前提にして東京が250キロ離れているから安全などという、政策推進者であってはならない。
震災直後、東京に出てくることがありました。計画停電を東京はやっていたにも関わらず、六本木に来ると、煌々と電気がともっていた。福島に帰ると真っ暗です。「東京は使う人、福島は作る人。東京は電気がついて福島は真っ暗。」
宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい きみや)さんに、南相馬市の子どもたちに「宇宙からの授業」をしてもらった。油井さんはずっとビデオで地球を追いかけて、中国はこれくらい明るい。日本は全部見えるくらい明るい。ところが、ゆっくりまわして拡大して福島にいくと、原発事故が起きたところは真っ暗になっている、これでいいのか。油井さんはそれ以上いわなかった。皆さんが考えてください、と。

原発事故がもたらしたもの
原発事故がもたらしたのは、それだけではない。
家族を引き裂いて行く。地域も。人を地域から奪いとる。南相馬市は一時期人口が1万人を割ったが、鉢呂さんという北海道出身の代議士が経済産業省大臣をしたとき、大熊町に入って、ここは死の街だといった。そしたら更迭された。でもあの時は全てが死の街に近かった。南相馬市を歩いている人はいない。歩いているのは野犬化した犬とカラスだけ。あとは救急車両だけ。人っこ一人歩いていない。そういう状況に追い込まれていた。その現実を、逃げていった報道機関が、鉢呂大臣のことを報道して更迭した。現場に行ったら今だって「死の街」に近い。動いているのは全国から来たダンプカーだけ。ダンプ渋滞が起こっています。

「お前ここへ来てやってみろ」
私は除染をして仮置場に3年置きます、それから中間貯蔵施設に30年保管します。その後最終処分場を県外にしますといいます。仮置場、今9年目です。オリンピックまでなくせません。復興しているはずの福島に仮置場がなくなることはない。
南相馬市はなんとか復興しようして、線量の低い土壌を再利用しようとしました。ぼろくそに反対されています。共産党から自民党、反対する人まで含めて現場をどうするんだと。反対だけなら誰でもできる。苦しいところをどうやって復興するか知恵を出せと。現場で生業を取り戻すためにどれほど必死になっているか知らないのに、持っていけるとかなんとか、危険だからだめだというのなら、死ねというのに等しい。高齢の農業者がどれほど死んだか。
仮置場の賃料をもらっているからいいな、もらっていない人は、いつまであんなところに仮置場を置くんだという。これだけでもいさかいをつくっている。3年なり5年なりで始末がつくなら何も言わない。ただ現場で農業を再開するためにどうやったら知恵を出して、再開を一刻も早くできるのかみんなが方策を出すべきでしょう。
現場でだけが苦しめられ、この仮置場を一刻も早くなくすためにどういう処理をするか。私は3000ベクレル以下の瓦礫を防災林の下に埋めて、そこに土を盛り、植林をしてきました。
毎年全国から2,000 ~3,000人のボランティアに来てもらって防潮林を作っています。そこから放射線の影響は何も出ていない。にもかかわらず、高速道路の下に埋めるとあいつは犯罪者だという言い方をするわけです。
でも、リニアモーターカーの話ご存知でしょう。
あのアルプスをぶち抜くトンネル作業でどれほどのヒ素だとか出ているのかは、公表されないでしょう。その処理は国交省も含めてやるんです。国交省は技術者の集団ですから、「あんこ政策」といって危険なものは下に入れて、その上に安全な土を盛り上げる土木作業をずっと行っています。国交省に聞けばわかる。
放射線が少しでもあるためにこの土は使ってはだめというなら、あえていいますが、なぜ山は除染をしないのか。山を最終処分場にしてあるじゃないですか。一切除染をしてないということは最終処分場にしてあるということです。南相馬は400平方キロメートルのうち200平方キロメートルが森林です。ここを除染せず、除染した低レベルのものだけを危険だというのか。5,000ベクレル以上の田んぼの土ははぎ取りました。5,000ベクレル未満の土は沈降しているだけです。吸収抑制剤を入れて沈降しているだけ。最終処分場と同じです。だったらなぜ、1,000とか2,000ベクレルの土をフレコンバッグに入れて双葉町と大熊町に運ばなければならないのですか。矛盾していると思いませんか?
私は環境省にこの矛盾を理解できるように説明してくれと迫りました。線量のレベルで分けるならわかる。だけど高いものであっても、田んぼに置いたりして進行している所もあれば除染を全くしていないところもある。河川には流れ込む。だからまだ鮎だって食べられない、きのこも取れない。岩手県でさえ原木しいたけは未だに生産禁止です。
このような状況を皆さん、知っていますか。
福島は生業を取り戻すために必死に生産活動を開始しています。田んぼを整備し直して、吸収抑制剤を入れて、当時は3号機の瓦礫撤去の影響で、南相馬市の米から100ベクレル以上が検出されて米をもう作りたくないと生産者がいう。私も責任者としてどれだけ叱られたかわからない。心に50万本の針が刺さっているのではというくらい叱責されました。でも、農家の人も含めた再開努力で、福島県浜通りでは最大の耕作面積になった。それでも小高地区の20キロ圏内はまだまだです。
9年たってもフレコンバックの山。なんとかしてくださいといってもみなさんにはなんともできない。国とか。あなたは何をするのか。市長が提案したのがダメなら、あなたは何を主張しますか。私はいろんな言葉をいただいたが、常に、お前ここに来てやってみろと。O、K、Y「お前ここに来てやってみろ」と。人を批判するのは簡単なこと。でも本当にこの人たちの生業を取り戻すために、今やらなくてはいけないことを決断することがどれだけ重要でその責任を取ることがどれほど大切なことか。みなさん、考えてみればわかりますよね。