「福島から語る」Vol.13 桜井勝延さん (2019年6月22日)

「市民は棄てられた」YouTubeでの訴え
YouTubeで訴えたとき、市民は棄民化させられている、棄てられた民になったといった。
原発は安全で安いと、コマーシャルなどを流しっぱなしにしたにもかかわらず、爆発したらこれほど危険で、これほど高くつき、これほど環境を汚染したエネルギーはないわけです。
川内原発を動かすと決めたのは(2015年)8月11日、月命日です。そんな日に決めるなんてなんてことだと思いました。
棄てられた民みたいに追い込まれて、買い物するのに相馬まで出かける。ガソリン取りに郡山まで来いといわれる。お前たちは死ねといわれているのに等しい。
だから私は避難させることを決めた。3月16日に、新潟の泉田知事が、「おはよう日本」を見た直後に新潟県が南相馬市を全員受け入れると。国がいわないのに、なぜ隣の知事がいってくれるか。神様からの言葉のようでした。その日のうちに新潟への避難を決断する。3月17日から20日まで、毎日、新潟方面に避難させた。市が送り届けただけでも5,500人。自主避難を含めて新潟県には11,000人、山形県には13,000人避難した。北海道から沖縄まで避難しました。この間513人が亡くなった。

市役所で50日間
私は酪農をやっていました。27年間、現場で農業をして、牛の搾乳をしてみなさんに提供する仕事をしていました。ですので、ほぼ365日のうちの360日は労働をしていた。市長になるとこんなに休みがもらえるのかと感じました。でも平成23年の震災では、さきほどのような対応のために3月12日から14日までは何時間寝たか、ということも覚えていません。役所に50日間寝泊まりしていました。防災服を着て、こういう話をすると笑われますが、11日間同じパンツをはいていました。むずがゆくなる話で恐縮ですが。でも物が入ってこない。「下着を送って」が、最初の私の悲鳴的なお願いでした。その話を聞きつけてダンボール一箱送ってくれた人もいました。
ただ50日間寝泊まりしなくてはならなかったのは、役所を幸いにして避難をさせないという決断は、東北電力が、東京電力ではなく、役所の隣にある東北電力の所長の石山一弘さんが、(今は栄転していますが)、私に、どうするのと聞きました。私は役所をとどめると話したら、東北電力も市役所とともにとどまって支援するといってくれて、市役所だけは震災後一日も停電していません。東京電力は真っ暗にしていますが。同じ電力会社でこの差はなんなのかと思う。おかげさまで役所に電気を一晩中照らしていたことでそれが求心力になりました。全国に避難していても、役所をとどめたために24時間電話対応できました。避難者がどこにいても困ったら役所に電話してきた。テレビで電話取材を受ける。私の顔写真だけが出て、声が出る。夜中、12時過ぎに避難先から、酒に酔った勢いで電話をかけてきて桜井市長を出せと。職員は、市長は仕事してます!というのですが、耐えきれなくなって私が替わると「なんだいたのか」となる。
南相馬市の市民は一時期63,000人が避難していました。市職員がどれだけ踏ん張ってあそこを守り抜いて、残った市民の生活支援をしていたか。それを知らない。3か月経ち、一年経って戻ってきて、この程度かと、避難先に行っている人からいわれたくない。あんた方は安全なところにいただろうけど、こちらは死体を埋葬するまで全部役所の職員がやっていたのです。ガソリンの給油までやっていた。その職員に向かって、「おまえたちは給料を税金からもらえるからいいな」という。でもいわれた職員は、家族を津波で亡くし、家を流されても必死になって働いていた。そういう姿を知らない市民が叱責する。
自分の身を守りたいのはわかるけれど、職員にとどまることを私が指示をして、今こそ南相馬市民を守るのがあなたがたの仕事だ、と全員集めて訓示しました。今こそ日本国憲法に基づいた公務員の責務を果たす時だと。全体の奉仕者として働くのは今しかないと。そうはいっても家族がバラバラになり、両親の面倒を全部自分が見なければならない人もいて残念ながら持たない、といって役所を早期退職した人もいる。約120名以上がやめていった。公務員、普通はやめたくない。何もなければ、これほど安定した職業はないのだから。新入職員に市長講話では、「皆さんは採用されておめでとう。犯罪をしなければ一生食えるんだから。再任用職員にもなれる。」と常に激励していました。市職員や公務員はいろんなことをいわれても必死に働いている。

酪農家、畜産農家の苦悩
20キロ避難指示が出たときに、畜産農家の人は密かに帰宅し搾乳したりて餌をやったりしていました。でも4月22日に警戒区域が設定されてからは入ったら犯罪者になる。搾乳している牛に餌がやれない。牛たちは乳がはって、もう、なんといっていいのか、大声で泣き叫んでいるわけです。
私は酪農家でしたから、牛が搾乳されないというのは赤ちゃんにお母さんが乳を飲んでもらえないくらい辛い。それより厳しいくらい。ところが国は殺処分を命じました。つまり「殺してしまえ」という。酪農家の皆さんは半狂乱になって猛抗議です。
20キロ圏内の中では南相馬市は一大酪農地帯だったのですが、誰一人として酪農を再開した人はいません。二度とあのような餓死させるようなことはしたくないと。
100頭飼っている酪農家がいて、牛が並んで食べられるようにロックする仕掛けがあるのですが、あるとき20キロ圏内の酪農家のところに行ったら、全部の牛が首をうなだれて死んでいました。生まれたばかりの子牛が、乳をほしがってふらふらになっていました。一方で、死んだばかりの牛にはうじが湧いていました。
本来は20キロ圏内にマスコミを入れてはいけないのですが、イタリアのジャーナリストから頼まれ、絶対に放映しないという約束をして取材をさせました。なぜか5月11日、脱原発の国民投票をするから、この現実をイタリアで報道させてくれといわれたのです。国からは多分処罰されるようなことをやっているんです。結果的には国民投票が成功して、イタリアは原発を作らないことを決めるんです。
畜産農家、豚農家の中で、自殺寸前になった人たちがいました。なぜかというと、豚が共食いするのです。子豚を親豚が食う。そういう姿はどこも報道していない。現場に入って養豚農家は自殺寸前でした。そこに私は、当時の岡田幹事長を入れたんです。畜産農家を自殺まで考える状況に追い込んで、殺処分やったからからいい、という話をするんじゃない。人間を助けた家畜たちを、なぜ虐殺、餓死させるのか。こういう現実となぜ向かい合わないのか、と岡田幹事長はじめ当時の民主党政権の人たちに見せました。生活がかかっているということは、家畜とともに、自分の命もかかっている。それを簡単に殺せばいいというのは霞ヶ関の役人が判断するんじゃないと、私はいってきました。
幸い、彼らの自殺は免れた。ただ、圧倒的に畜産農家は減りました。あの命を再び危険にさらすようなことはしたくないという意味。なぜ人間だけが避難し、家畜は避難させられないのか。