「福島から語る」Vol.13 桜井勝延さん (2019年6月22日)

どこにいてもいのちは一緒
若い人たちが南相馬市で夢を描ける取り組みができないかということで、経産省と、福島県とも協力をして、南相馬市にロボットテストフィールドを作りました。機会があれば宇宙エレベータ実験など様々なことに取り組んでいます。南相馬訪問の際は、最先端の技術と相馬野馬追のギャップを体感してほしい。
若い人が戻りたくない環境を、福島の人でなくても来たくなる環境にすることが大切です。南相馬市の高齢化率が35%といいますが、福島県でも昭和町や塙町など、高齢化が高いところがあります。
でも東京と、東北では仙台、北海道の札幌に人口が集中しています。首都圏は日本中から若い人を奪っている。残された田舎は、家付き土地付きで、来てもらったら全て提供するなどとやっている。これはおかしくないですか。これで国土強靱化なんて、いえるんですかね。政治家らしい話になってきましたが。
どこにいても、命は一緒ですよね。例えば、大熊町だろうが東京だろうが。今日、上京するとき、高崎線なんかで人身事故がありました。川崎の事件とか、命が粗末にされるようなことが本当に多いですね。南相馬に来ただけで、東京にいたら使い捨てられるけど、南相馬だと成功者になるだろうと申し上げている。認められる関係ができるわけです。そう思えないから、疎外、差別、自分はいなくてもいいとか、こんなみじめな自分は他人を傷つけてもいい、という感覚に押しこまれているのじゃないか。
被災地から、いろんな営みから命が奪われるものを見てきましたが、人は何のために生きているのか。常に考えさせられてきました。

自己紹介にかえて
最後に私の話を。
農家の長男として生まれました。中学の時に大学に行きたいと思い、宮澤賢治の大学に入ろうと決めて、岩手大学農学部に入った。4年間、学生生活をし、昭和53(1978)年4月から農業者として現場で働くようになりました。なぜ現場に出たか。農家の苦しみは農業をしないとわからないから。私は改良普及員の資格試験にも受かっていたので、技術者として県庁などにも簡単に入れる。技術者として入った彼らと卒業する時議論したのは、指導者は現場で汗を流してからじゃないと、指導なんかできないと。結果として、自然との対話の仕方とか自然から痛めつけられたりして悩んだこともあった。現場で汗をかくことがどんなに貴重か、27年間牛と話したりして体に染みついてきたと思います。
ある日、大阪などに産直の米を送ったとき、産廃処分場の問題が起きた。私のところからいくらも離れていなくて、そんなものは許せないということで、勝手にチラシを作ったりして、裁判闘争も含めて16年間闘ってきました。お蔭様で、裁判所の認定で、年利6%の損害賠償が棄却され、今でも賠償金は払い続けている。一方、設置許可を勝ち取って、最終的には処分場をチャラにしました。
このなかで、なぜ政治は現場のために機能しないのか。だから、私は政治家になることをこの時点で考えて、市会議員となりましたが、市会議員では何も権限がないとわかり、市長になろうと決めました。手段として市長にならないと、やることもできないと思って、市長に挑戦して、なんとか当選した。
次の年にあの震災がきました。私には神様がこれほど試練を与えてくれるんだ、ありがとう、という感じ。あのとき考えたのは、私は世界で一番ラッキーで幸せな男だなと思った。歴史的な災害に、世界史的な災害に、私が中心人物として指揮を執る立場にある。
ここはシンドイというレベルではなく、この主人公としての役割をエンジョイしなければいけない。
エンジョイという言葉は誤解されるでしょう。究極に追い込まれて、オリンピック選手が楽しかった!というのと同じ。振り返ると、こんなに楽しい仕事をしてきたんだなと思っています。俺しかできない仕事を与えてくれた、と思っています。
52日だろうが100日泊まってもよかったんですが、職員が疲れてくるんですよ。誰かが私のところに交代で泊まるので、職員が疲弊する姿を見て、役所を50日間で出ることを決めたんです。
何のために仕事をするのかというと、市民の亡くなりつつある命と向き合い、亡くなった命を拾い上げたいという思いで、常に一人ひとりと向き合ってきました。結果的には、自分の「非力さ」しか感じなかったが、ただ、今やらなければならないことは、今やるんだと、常に考えて行動してきました。
職員への最後に訓示したのは、「今、皆さんが市民のために働くことが、100年後には、あの人たちがいたから今があると、必ずなると。だから今頑張ろう」といった。
職員だって苦しい立場であっても、「お前がいてくれてありがとう」といわれることで続くんです。そういう社会環境作りをしていくこと。皆さんが主役。皆さんがそれぞれの役割を果たして、初めて、地域が、自分がいてよかったな、自分生まれてよかったな、という地域になるのではないか。
私はやり続ける、でも、桜井に頼ってどうする。やるのはあんた方なんだ、とずっといってきました。残念ながら、自分の思い上がりと非力さで、敗戦していくんですが。
思い上がりはやばいです。おれはできるんだなんて思ってると、あのバカ、とあちこちでいわれていました。

首長としての思い
南相馬市長として、あの震災で何を学んだかというと、国との近さ。地方自治は、国は現場では正直わからない。でも、この国の問題は現場でしか起きていません。これを霞ヶ関なり永田町にぶつけることで彼らの考えも変わるということを学んだ。
前川喜平さんも、変わりました。私は8年間彼とつきあいました。夜間中学で教えたということなどが注目されますが、彼はずーっと現場に足を運んでいたんです。
南相馬でも。私は彼に、小高に20キロ圏内の学校を再開するのだから、南相馬市で一番の学校にしよう、でないと子どもたちも親も通いたいと思わない。全部一新して、校庭には人工芝を張っていただいた。なぜ人工芝かというと、30キロ圏外の幼稚園で、ソフトバンクの支援で人工芝を貼った時に子どもたちが走り回って喜んでいた。子どもたちがこれほど喜ぶ環境を与えることで親も変わるだろうと思ったので、だから前川さんに現場に来てもらい、ここに人工芝貼るから国から金を出してくれと。他の町もその後全部人工芝になっています。南相馬にもやったからこちらもということだったが、これは違うんじゃないかと。
私は、子どもたちが一番喜ぶ環境の提供が大切で、そのために子どもたちが思い切って運動できれば、彼らが学校に通いたくなるではないですか。そういうことを提供して、少しでも子どもたちが元気に過ごす姿を発信したかった。
分娩数が減って、新生児が600人以上だったのが、一時は0にまで減ったのに、相当回復しました。産科の先生にも苦労をかけていますが。医大との連携だとか、頭下げるのだけは得意なのでね。3回下げればなんとかなる。医大に行き、厚生労働大臣とか事務次官とか、大変お世話になりました。
南相馬のためだけに働いてくれたわけではないけれど、それでもそれくらいの思いを持って、彼らと接したときに、霞ヶ関の人間も変わる。人は心底気持ちを込めて訴えれば響くのではないか。人を動かせるのではないか。感動するという言葉は、感じて動くのです。言葉によって人の心は動かされる。
ですからできるだけ、霞が関の官僚とか、代議士には厳しいことをいいましたが、丁寧に説明すれば耳を傾け、現場に来てくれて、適切な判断をしてくれることを学びました。

おわりに
みなさんの前で恥ずかしい話をして申し訳ないのですが、人間はなんのために生きるかという時に、自分はあの人のため、あの人たちのために行動することによって、それでこの人たちの気持ちが安らぐのであればと、思いやりがあるのだということを学んできました。自分が考えるより先に動く。感じたら、まず行動するということを震災の中で学びました。
ご清聴ありがとうございました。