「福島から語る」Vol.12 廣畑裕子さん (2019年9月7日)

おだかぷらっとほーむ
花を作りながら小高に通うようになりました。鹿島区の仮設住宅から小高までは約25キロか30キロくらい。
小高に行ってみて感じるのは、朽ち果てていく自分の家です。どんどんどんどん時間だけが過ぎていく。
津波の被災と原発の被災の、何が違うか。原発の被災は津波被災のようにバサッとなくなるのではなく、どんどんどんどん朽ちていく自分の風景や、自分の家を見ていることです。
私、廣畑の心に一本の針が刺されて帰ります。次に行く時、またもう一本何か刺されながら帰る。それを続けていく。これが原発被災じゃないかと思います。
セシウムでも放射能でもない、自分が自分を刺してしまいます。草だらけの農地を見ただけでも刺さります。そういうことの連続でした。
そこから私は、誰とも話さないで帰ってくることがとても寂しくなりました。だれかに会いたいから通う。でも小高の街中でだれにも会えませんでした。
「おだかぷらっとほーむ」は、みんなにすごいね~と言われるが、あれは自分がだれかに会いたかったから、だれにも会えないで帰るのに自分が耐えられなくなったから、自分のために作ったんだと最近だんだんわかってきました。みんなに言われて、そうかなと思っていましたが、振り返ると、自分がだれかに会いたかったからだなと、すごくわかりました。私がだれかに会いたいように、みんなもきっとだれかに会いたいのではなかったかと思います。
人がいなくなった小高に明かりをつけておくことで、だれかが私を訪ねてくるのではないか。私の知っている人に会いたい、見たい。そういうところからおだかぷらっとほーむははじまりました。ぷらっとほーむには最初、トイレもなく水もありませんでした。でもできたのです。だってトイレも水も町のどこかに行けばいいのだから。
それはとてもいいことでした。ぷらっとほーむに来たお客様は駅にトイレがあるから駅まで歩かなければならない。しょうがないからだれも歩いていない街中を歩いていきます。
遠くからそれを見た街の人は、今日は人がいると喜びます。でもその人はトイレに行くだけだった。小高に人の歩く風景はこうしてできた。なにが幸いするか今でもわかりません。
そこからはじめて次のこと、次のことが生まれてきました。私が思ってることは私以上の
ことにはならない。私の思い通りにいかないことですすんできたと思っています。
そういうことで、「おだかぷらっとほーむ」ができて4年になっています。

唐辛子で産業起こし!?
2016年7月、皆がだんだん小高にやって来るようになりました。
そこで話し合われていることは、「帰って来たはいいけれど」です。「俺の作ったトウモロコシは全部ハクビシンが食ってった」とか、「帰って来たはいいけれど、だれがどこにいるかわからない」がぼそぼそとささやかれるようになりました。だれがどこにいるかわからない。それがいちばん大きかったです。農家さんが来て、俺が作った物を出荷したいけど、どうしたもんかなと言いました。そんなことを考えていた時に、そういえば、唐辛子がやられたということは聞きません。トウモロコシ、ダメだ!ジャガイモ、ダメだ!が、唐辛子をダメだという人はいませんでした。ということは、唐辛子はいいと。そこで私は商売人になることを決心しました。
2013年に「のらとも農園」を造りました。2015年に「おだかぷらっとほーむ」を造りました。2017年に「小高工房」を造りました。
造ったというか、やらざるを得なくなったというか、はいとイエスしか知らないので、やれと言われて、はいと言うしかなかった。それもとてもよかったと思います。
あなたの職業は何ですか?と聞かれた時、主婦と答えても、どうやって食べているの?と聞かれると答えられなくなります。それは、町の人も同じだと思いました。今何をやって食べているのか答えられないのはちょっと苦しい。小高にちょっとした産業があればとちょっと思った。つながりがなくなった人がつながればいいと、ちょっと思った。ちょっと思った、ちょっと思ったがつながっていって、鳥獣被害にあわないのは唐辛子しかない。それを出荷して経済がまわれば産業になる。それが、唐辛子プロジェクトです。唐辛子プロジェクトは いやらしいプロジェクトだとよく言われます。100円で苗を売って、できた物を100円で買い戻して加工して500円の製品を売る。みんなからお前のプロジェクトはいやらしいと笑って言われました。
3・11から今日まで共通の話題がなかったのです。
私が最初に聞くのは、「3・11は何をしていましたか?そこからどうしたの」。その話は2時間くらいかかる。共通の話題が3・11しかなかった。そこから8年の間に唐辛子を作ることによって、俺の唐辛子、お前の唐辛子、と唐辛子という共通の話題ができた。コミュニティ再生ってよくわかりませんが、コミュニティは作るものではなく、できていくものだと思います。
最初の年は3人で始めました。15本しか作っていません。
2年目は64軒の人が応募してくれました。
64軒の中には、役所の庭とか、保健衛生センターの庭とか5階のベランダだとか、いろんなところがあります。最高は87歳の人までやっています。
放射能を気にしないためには、ホームセンターの土は全国同じだから、ホームセンターで買ってきた土を使えばいいと、はじめた人もいます。
だれにでも参加できるので、今は、いろんなものを作っています。