「福島から語る」Vol.12 廣畑裕子さん (2019年9月7日)

生かされて
私の大好きな人々が亡くなってしまった。
でも、私たち2人は生きているのです。自分の努力ではない、自分の力で生きているのではないと、つくづく思いました。1ヶ月後、私たちが落ち着いた時、住むところが見つかった時、俺たち、生きている、とはじめて思いました。
3・11を振り返った時、いちばん大切なものにちょっとだけ気づいたと思いました。
私は365日24時間働く仕事人間です。でも会社も明日の仕事も全部なくなりました。
ただ、大切なものはそこにいるうちの子どもとか、家族のつながりだと、やっと気づくことができました。それを守ろうと思った。だけど、仕事に復帰するとまた同じような生活になりました。
2013年の春、農園を造ることにしました。
朝、子どもにかける言葉は、「ごはん食べたか、学校に行け、風呂入ったら寝ろ」、それしかなくなって2年。それは違うと思いました。
会社を辞めて、当時仮設住宅に住んでいましたから、仮設住宅の脇に農地を借りました。とりあえず時間を有効に使うためです。でも、農家の経験は全くありませんでした。それがよかったと思います。知っていたら失敗することがよぎって、多分やらなかったと思っています。やったことがないから、そこに農地を借りて、退職金全部使って、ビニールハウスを建て、とりあえず花を作りはじめました。
なぜ花か。野菜の話もあったが、野菜はなあ…なぜなら放射能のためだめだろう、という話が出ました。花はどうかと訊いたら、「花はいいよね、」と返ってきました。
じゃ、花農家になろうと、無謀に考えました。
そこから本を読んだり、インターネットを見たりして、種をまけば芽が出ることがわかりました。けれど、素人がやってることです。芽が出て喜んでも、次の日は枯れてます。その連続です。
そのうちなぜか、仮設からいろんな人が、花を作っているところを見にくるようになりました。そして仮設のおじいちゃん、おばあちゃんは「これはだめだ~」と言う。すると、ホントにダメで、翌日枯れる。
そういうことをやってるうち、朝、起きたら、ひとりでにビニールハウスの蓋が開いているようになった。枯れるようになったら、朝6時に行ったら、花の水遣りが終わっている。草、生えてると思ったら、草むしりも終わっている。
何をやらねばならないか、わからずにやっていた。
考えてみると、仮設に住む70代、80代の人々は昔やったことがある。失敗することをみんなは知っていた。知らない廣畑が手を出した。その人たちと、そこでつながることがはじめてできた。
そこからすすむことができた。
私がもし完璧にできる人だったら、その人たちは手を出してくれなかったと今でも思っています。
知らないってとてもいいなと、最近は思います。
私は花を作り、2年半後には、市場に7万鉢の花を出荷した。それは、その人たちが出荷場所など、なんでも教えてくれたからです。でも利益は86,000円ほどでした。
でもそれにより、つながりが残った。何かの時、必ず助けてくれます。遠くに避難した人が今でも訪ねてきます。つながりを考えると、利益が86,300円でもいいなと思うところです。
だから、自分のダメなところを気に入っています。