避難したところが避難所に
後で聞いた話ですが、あの時、地元のおじいちゃんが「昔はあの山が避難場所だったんだ!孫を殺す気か!」と、桜平山(さくらだやま)と呼ばれる高台を指さして言ったそうです。
あれ程の被害の中、誰も巻き込まれなかったのは、そのおじいちゃんと、避難指定場所であっても、昔の人は嘘は言わないと言って、避難場所の変更をすぐに決断してくれた校長先生のおかげです。本当に救われました。
ロープを外してくれていた人は、今回の津波で亡くなりました。その人の止めていた車は校庭の外側にあったので、なぜロープを外したのか、今も不思議です。私も、主人も、子どもたちも仲良くさせてもらっていた人でした。その夜、そのまま避難した場所が避難所となりました。
そこで一夜を過ごしましたが、震度4を超える余震が続き、恐怖で泣く子どもたち。そのたび、外に逃げる人、家族が見つからず泣く人。そこにいることが辛くなり、翌日の朝早く、子どもたちを連れ、その場を離れたい一心で、隣の市にある姉の家に向かいました。私の家族は全員無事が確認されたものの、家族や身内を亡くされた方が大勢いました。
私の住んでいた地区でも、多くの方が亡くなりました。
辛かった子どもたちとの別れ
姉の家で、この先を考える余裕も気力もない中、3月12日、福島原発の1号機が爆発しました。何でつぎつぎと試練があるのだろう。そんなに私は悪いことしてきたっけ?とそんなことばかり考えていました。
子どもたちの将来と被ばくへの不安、夫の情緒不安定、末期がんの義理の父。どれを優先するのか、葛藤でした。そんな中、甥が北海道に避難することになりました。
姉が「気を付けて。これから何が起きても、家庭を守ってしっかりね!」と、これが最後と思う別れの言葉でした。翌日、その弟も幼い子どもを守るため、後を追って北海道に行くため、姉の家に来ました。
私は子どもたちだけでも助けたい、避難する甥に「子どもたちを一緒に連れて行って」と口から出てしまいました。
もう二度と会えないかもしれない。このまま原発が爆発したらと、死も覚悟しました。子どもたちの将来を見守ってあげられない、このまま二度と会えないかもしれない。親のいない子どもにしてしまうかもしれない。それでも助けたい。震災で一番辛かった、子どもたちとの別れでした。一緒に行けば良かったじゃないと思うでしょう。
気持ちを強く持てば道は開ける
船が残り、先のことが全く予想もできず、不安定な精神状態の主人を連れて行くことも置いて行くこともできず、いつ急変するかわからない義理の父の状態。家が流され、何もない。これからのことが全くわからない。何もできない家族を置いて、私が子どもの側にいる選択はできませんでした。
それに、原発が爆発しなかったら、再建できる可能性があるなら、子どもたちが戻った時の住まいを何とかしなければと思っていました。こんな大変な時に、子どもたちの側にいてあげられない自分も責めました。
そのこともあり、サロン活動は子どもたちに胸を張っていられる何かでもありました。避難させるだけでなく 残った人もできることを頑張っていると思ってもらいたい。子どもに褒めて欲しかったのかもしれません。子どもたちへの、何がなくてもできることはある!
気持ちを強く持ってさえいれば、きっと道は開けると知ってもらいたい。これから先、つらいことがあっても乗り越える力をつけて欲しい。