「福島から語る」Vol.11 松野みき子さん (2015年12月5日)

地震のすごさに「笑うしかない」
震災の日の3月11日は、とても穏やかな日でした。2時46分にあの地震がありました。「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」です。地鳴りが遠くから響いてきて、揺れる前から大きいと感じ、身構えました。それでも、予想以上の揺れの大きさに、恐怖よりも何が起きているのかが理解できない感じで、「いつ収まるの?」「わがんねぇ」主人と会話する時間さえありました。
その日、公立中学校は卒業式のため、帰りが早かったこともあり、2年生だった娘も、乗り物に乗っているみたーいと笑いながら私のいる部屋に入って来ました。
一気に音を立て、何十枚もの瓦が落ちました。その音に「すごいねぇ」と私と娘。あまりのすごさに、どうしようというより笑うしかない。そんな感じでした。これが起こると言われた、宮城県沖地震なんだと思っていました。
外に出て瓦を片付けていると、何度も余震があり、そのたびに瓦が落ち、屋根を見ながら瓦を片付ける作業をして、とりあえず車を出せるくらいの道を作りながら、息子の通っていた小学校が、まだ耐震工事をしていないことを思い出しました。子どもたちのことが心配で、「小学校に行かなきゃ」と、娘に声を掛けると「家を片付けるから行かない!」と言われましたが、それに反発し、「嫌だ!」と言う娘を無理やり連れて行きました。
この時、地震発生から20分以上過ぎていました。

巨大津波を全力で越えて
私が幼稚園の頃体験した宮城県沖地震ですが、あの時もすごく大きな地震だったと記憶しています。50センチ程の津波で、それも水位が上がっただけで、全く被害もありませんでした。まさか今回の地震で、計測不能の巨大津波が来るとは誰も予想しなかったと思います。だから、多くの方が亡くなってしまいました。
全く津波のことなど頭にない私は、小学校の校庭で息子に会い、寒さと恐怖で震える他の子どもたちを見て、「毛布を取りに家に戻ろう」と言って、娘と自宅に戻り、娘に「毛布を出しておいて」と、お願いしました。私は、船を見てくると言って主人が乗って行った軽トラックを取りに、船着き場近くまでは行ったものの、岸壁までは行かなかったため、津波の前兆で潮が引いていることなど全く知らずにいました。主人は船を沖に出していました。
船を沖に出すのは、水位が上がっただけでも船同士がぶつかったり、満潮だと、船が岸壁に乗り上げてしまうので、とりあえず、という気持ちで沖に出します。
まさかあの巨大津波を船で越えるとは、本人もわかっていたら船を出さなかった、それぐらい恐ろしかったと言っていました。
4メートルくらいの波を越え、振り返り、陸に目をやると、防波堤を波が越え、「床上まで行ったか!」と思ったものの、視線を沖に戻すと、目の前に見たこともない波の壁があり、夢中でエンジンを全速に切り替え、あの波を走るように越えたそうです。
陸に目をやると、自分の生まれ育った場所が一瞬で呑み込まれ、住んでいた家も、毎日、魚を揚げていた漁協組合の建物も何もない。頭が真っ白になったと言っていました。もう家族とも会えないとも思ったそうです。