「福島から語る」Vol.5 信木美穂さんと避難者Kさん(2013年6月29日)

信木)ここからは、Kさんと一緒にお話をしていけたらと思います。まず、避難を決意したきっかけは、皆さんそれぞれあると思うのですが、情報が全くない中で、自分たちのネットワークを使って避難した人たちもたくさんおられると聞きました。Kさんはどのような状況だったのでしょうか?

Kさん)私自身は、実はかなり早い時間に避難していました。家を出たのは、原発が爆発する前でした。主人はチェルノブイリ原発事故の頃からいろいろ調べていた人で、これだけ揺れたら危ないと言っていました。3月12日未明に、福島の家を出てきてしまったのですが、逃げる最中にラジオでニュースを聞いて、恐ろしくなりました。たまたまガソリンがあったので、早く逃げられたのですが、その後ようやく友だちからメールがきて、どうやって、どこまで逃げたら、ガソリンがあるのか、とみんなに聞かれました。逃げたいけれど、ガソリンが足りるか心配というのです。すごく困っていて、ちょっとしかないガソリンをみんなで分けたりしていました。逃げたくても逃げられない人がとても多かったです。
私たちの場合、早かった理由の一つは、オール電化の家だったことです。停電したら、家の中は夜マイナス2度まで下がります。84才の父がいたのですが、ガタガタ震えていました。このままでは肺炎になってしまうのではないかと心配で、とにかく、停電していないところまで逃げなければ、年寄りと小さい子どもの命が危ないと、先に逃げてきたのです。
津波で保育園が流れてしまったところもありました。小さい2、3歳の子どもが流され、お腹には子どもがいるのに、逃げるに逃げられないというお母さんがいました。いわき市内で津波の被害に遭い、家族が見つからない状態ではどんなに怖くても逃げられないという高齢者の方もいました。そういう理由から逃げたいのに逃げられないという声をたくさん聞いて、すごく辛かったです。
信木)その後、Kさんは東京にいらっしゃったと思うのですが、まず、どちらにいらしたのでしょうか。
Kさん)結婚して福島に来て、いわき市民になり15年経っていました。生まれは横浜です。まずは、横浜の母のところに私の父を届けなければと思い、いわき市を出て、19時間後に横浜に着きました。何度か休憩を取り、みんなで父の背中をマッサージしながら逃げました。逃げる時に亡くなった方も多かったので、エコノミー症候群などを心配しました。
母の家に2泊3日しました。2日目の夜、母も病気なので「孫を養えるほどの体力はないし、長い闘いになりそうなので、自分たちで住むところを探しなさい」と、泣きながら言われ、ここも無理だからと、アパートを探し、都内に移りました。その時点ではまだ、自分たちがまさか避難所に入ることになるとは夢にも思っていませんでした。どんなにお金を使っても自分たちの住む所を探さなければと思い、幸い、敷金礼金を取らないところがあったので、そこを借りました。友だちからの情報で、赤坂プリンスに入れていただいたのが4月の末です。アパートには一カ月くらいいました。リサイクル屋さんから洗濯機等一通り、買ってしまいました。今、当時のレシートを見るのも恐ろしいですが、帰るわけにはいかないと思って全て揃えました。その後、赤坂プリンスに引っ越しました。

 

信木)Kさんはそういうふうに避難されたのですけども、避難所を経由した方も多かったと思います。東京ビックサイトに大きな避難所がまず開設されました。そこに天皇がいらしたのですね。
Kさん)天皇が避難所に慰問に来られたのです。私はそこにはいなくて、ビックサイトにいた友だちから聞いたのですが、当時の石原都知事が天皇を案内してビックサイトに来られた時「ここには本当に困っている人はおりません、陛下」とおっしゃったそうです。仲間たちはそれを聞いて、うなずかざるを得ませんでした。車が流された人は逃げて来ていないわけです。
本当に困っている人は、確かにお金がなくて車を持っていない人、ガソリンが買えなかった人たちです。津波にもまれて傷だらけの人もいました。水も少ししかもらえませんでした。一日に1リットルか2リットルくらいと言われていましたが、実際には、朝、普通サイズのコップに半分くらいです。あと、いただいたのはパンだけでした。でも、困っている人は確かにもっといたのです。私たちは、その辺りから罪悪感を持つようになったのだと思います。
信木)今回の地震のことを天罰だと言った石原さんの発言があり、私たち支援者も憤慨したことを覚えています。津波と震災の被害がメディアで報道されるのは、当時は岩手と宮城でした。福島の情報はなかなか入手できませんでした。Kさんたちのように福島から避難した人たちも、自分たちは避難したけれども、残してきた親戚や地域の人々、避難していない同じ学校の子どもたち、お母さんたちのことをずっと考えてこられたということを、6月に面談している時に伺いました。「私たちは避難してきたから本当によいのです。でも、保育園のお友だちが避難していないのです」などと、多くの人から聞かされました。「この避難所が閉まったらその後、避難できるのか」「住宅の申込みはいつ締切になるのか」、残っている福島のみんなのことを心配しているという状況だったにもかかわらず、避難してきた人たちにかけられる言葉はとても冷たい言葉だったと思います。
先ほどの映像の中にもありましたが、分断という言葉を皆さんもよく耳にされたと思います。福島は今、警戒区域、避難区域とそうでない区域に分かれています。避難区域だったところが、今度は準備区域になり、帰れる区域になっています。線量の問題、被害の問題を抜きにして、どんどん線引きされています。そこにも分断が生まれています。学校や地域の中で、避難した、避難していないということだけでなく、避難区域の方から「いわきの人たちは避難する必要がなかったんじゃないか」と言われるとか、エレベーターの中で「あんたどこから来たの」と聞かれ、赤ちゃんを抱いたママたちが怖くて「いわきです」と答えられなかった等、そういうお話をたくさんの方から聞きました。
夏になり、ようやくメディアが福島の避難者のことを取り上げ始めました。自主避難者という言葉で括られたために、自分たちで避難を決めて避難してきた人たちが、世間から冷たく見られるということが起きたのもその頃です。