「福島から語る」Vol.2 田中徳雲さん(2013年9月13日)

しかし、ここでは火を焚くことができません。人間は火を焚く動物であり、それは進化の過程です。それができなくなっているのが今の状況です。火を焚くと通報されたりします。何か方法を誤ってしまった今の時代を象徴しているようです。そして原発の火によって私たちは避難しています。火の使い方を誤ってしまった人間が今の私たちです。

2011年3月11日以後も野馬追の行事は、規模を縮小しながらも続けて行われています。それは1000年続いたことをやめたくないとの地元の人々の強い意志の表れです。
2012年のお盆の時、数えきれない人々が盆の供養に集まりました。台所の方で何がひどいと言って、それはネズミの数でした。あの頃はまだ手付かずの状態で、人が住まなくなって2年も経つと、満月の晩はネズミで家が揺れるほどでした。私が寺に帰って一番にしたことは、主人が帰ったことを告げるために笛を吹いて太鼓をたたくことでした。

この地域の課題は、安全基準の値が高すぎるのではないかということです。水も食品も共にです。100べクレルと言えば、爆発事故前の基準に照らしあわせれば、放射性廃棄物です。それを大丈夫だと言います。規制すると混乱するから、大丈夫と言うのです。今の課題は法律を乗り越えてゆくことだと思います。
避難するにしろ留まるにしろ、大変です。私が経験したのは、福井と福島で家族がバラバラになってしまったことでした。子どもの被ばくに目をつぶって帰ってくることも辛いことでした。普通の生活を営むことがかなわないことは狂気の沙汰でした。妻も泣いていました。子どもたちも泣いていました。転校したくない。しかし2年たてば、子どもはもう福井弁を話していました。そしてそこを離れることはまた別の問題で、多くの子どもたちがそういう思いをさせられているのが現状です。

賠償の問題があります。私は弁護士を通して何度も東京電力と話し、避難の経費について願書を提出しています。しかし、常にはねつけられているという現実があります。4回も書類を出して1年半も通らない厳しい現実です。すべてのことに状況証拠を出せと言う……、それは向こうのすることだと思います。放射線防護の基準があります。安全基準を作っているのは被ばくを強制するものです。
強制する側の作った社会基準を私たちは受け入れているのです。IAEA(国際原子力機関)もICRP(国際放射線防護委員会)も核を推進する側の核産業保護のために立ち上げられた組織です。WHO(世界保健機関)でさえもその傘下で、第三者的、または公平な学術機関というわけではありません。原発を推進するものであることを忘れないでください。
私たちには被ばくしない権利があります。原発はいりません。原発のない世界を生きてゆく権利があるはずです。自由の身であるはずです。

それでもなお、今、福島で何とか復興への道を歩んでいます。倒壊した家もボランティアで直しています。今、私たちは作業着を着ていますが、野馬追の時は正装して馬に乗る若者たちです。
村上の海の方で田植え踊りを継承しているお婆さんたちがいます。ここは75世帯の集落で、津波で62人が亡くなり、今は、集落自体がなくなっています。しかし、それでも集落の人は祭りを継承しようとしています。これを機に集落の人が集まれば……という思いです。こんな時こそ、お祭りをして天国、極楽のような、みんなが笑って歌って舞うような空間を作り出したい思いです。

足元に目を向けると、草花の異常が目につきます。タンポポの花が3つ4つ、1本の茎によじれて一緒になっている。10本くらい一緒になっているのもあります。これは環境省に言いたい問題です。肥料過多ではないかと言われましたが、ゴルフボールのようなシロツメグサがあったり、おたまじゃくしの奇形が見られる状況です。

今日私たちは、何が大切か身にしみてわかります。日々の何でもない生活が何より大切なのです。家族が一緒に住むこと、一日の生活の中で日常の挨拶をかわすこと、知った顔がそこにあって、知った人とのごく当たり前の日常がどれほどありがたく、かけがえのないものか、身にしみて感じた2年半でした。
しかし、起こってしまったものは仕方がない、だから前を向いて行こう、子どもたちのために、5年後10年後のため、まだ生き続ける人に負の遺産を残したくないという思いです。その前に過去を反省する必要があります。私たちは、皆さんを含めて皆、被害者であると思います。