「福島から語る」Vol.1 髙橋美加子さん(2013年3月8日)

避難中、私は福島にいて、その後仙台の娘の家に身を寄せました。福島では放射能汚染を避けるため、私はツルツルのカッパを着、マスクもつけていました。母の病気のことで、仙台の大学病院に行った時「南相馬から来た人はスクリーニングを受けてください」という掲示があったので、家族を誘って検査を受けに行ったところ、私の靴から高い放射線の数値が出て、直ちに没収されました。その靴は2、3日、娘の狭いアパートの玄関にあったのです。娘の子どもは1歳。家族は何も言わない。でもその瞬間、家族の雰囲気は一瞬フリーズしました。その時の私の複雑な気持ちを考えてみてください。自分自身のせいではないけれど、私が放射能を持ってきた、すまない、と思い、身が小さくなりました。
そういう経験をした私たちは、いま南相馬で普通に暮らしています。線量は平均で0.4マイクロ・シーベルト(2013年現在)。0.1~0.2だと外で子供たちを遊ばせてもいいという感覚です。ホールボディーカウンターも整っていますし、食べ物の線量も全て測られています。そして20キロ圏内に立ち入りが許されてからは、小高の人たちが仮設から自宅に通うようになり、町は活況を呈しています。
でも、見えない放射線が低線量といえども存在する、細胞に影響するものがある、ということを皆が無意識で感じ、精神的な疲労から病気になる人も増えています。

私自身は今回の経験から、人間はどんな所でも生きていくエネルギーをなくさない、強いな、と感じました。しかし人は、切り離され絆が断ち切られたときには、非常に弱くなります。20キロ圏が解除されて自宅に戻った男性が、もう元に戻れないと悲観して自殺してしまいました。一人で抱え込み、それを支える絆がなかったからです。
さらに心配なのは子どもたち。彼らは大人の言葉をまともに聞き、苦しみます。
私たち大人は四六時中、放射能のことを話し、東電への怒りをぶちまけ、国は何もしてくれないと言い交わしています。それを子どもたちはまともに聞くのです。子どもたちは親が思っている以上に親のことを思い、苦しみ、親を苦しめているものを純粋に憎みます。私たちは知らないうちに、日本の国を憎むような子どもたちを育てているのではないか、と本当に危惧します。しかも、いま日本にはどことなく虚しさが漂っているようです。
でも若い人たちは、夢と希望を持って一日一日をちゃんと生きていくだけでいい、自分の気持ち次第だ、と無意識に感じ、行動しています。彼らを枠にはめるのでなく、譲って、応援していくことが大切だと感じています。
私たちは2012年3月に、屋外遊びができない子どもたちのために、屋内遊び場作りをしてきました。体育館には、もらってきた段ボールだけ。そこで最初に遊び場作りのスイッチが入ったのはお父さんたち。子どもを住まわせる家を作ったんです。次に子どもたちが道を作りました。家と家が道で繋がり、女の子たちはお店屋さんを作りました。男の子たちは刀や吹き矢のような武器を作り、段ボールを丸めてボールも作って、野球やサッカーを始めました。すると高校生たちが銀行を作り、地域通貨を発行しました。仕事をしたり、作ったものを持ってきたら、通貨をもらって本物のお菓子と交換できる。すごくいい仕組み、微笑ましくて建設的だと思うでしょう。働いたらお金がもらえるからたくさんお手伝いしてね、と声をかけます。